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アズレージョの壁画

公開日 2020年3月3日

更新日 2020年3月3日

アズレージョの壁画

アズール(azul)は「青い」または「青」を意味し、azulejarは「青色にする」「彩色タイルを張る」などで、azulejoはポルトガル語とスペイン語のアズールが語源となっています。もともとイスラム文化の影響を早くから受けて、ポルトガルではタイルが壁面装飾に用いられました。
16世紀後半には、フランダース〈ベルギー西部、フランス北東部、オランダ南西部〉のタペストリー(つづれ織り)の影響を受け、教会、修道院、貴族の邸宅などの壁面の装飾として、主に幾何学模様や動植物を描いたものが多用されました。17世紀後半からは、オランダから伝えられた中国風の白地に青のモノクロ・タイルが主流となりました。18世紀には、病や災害から守ってくれる聖人や聖書に題材をとった絵画が好まれ、1755年のリスボン大震災の後始末を見事におこなったポンパル侯爵の時代には黄・緑・赤・青の多彩な色彩を使ったロカイユ様式が流行しました。《金七紀男「ポルトガル史」より》
現在では「現代絵画」の画家たちが、その色彩・構図・表現方法など全く同一のアズレージョ絵画を制作することも試みています。

アズレージョ絵画解説

日本への旅立ちの町

日本への旅立ちの町

1.日本への旅立ちの町ー大航海時代のリスボン港風景
リスボア(この国の人はそう呼ぶ)はテージョ河が大西洋に注ぐ河口にあります。16~17世紀の大航海時代、ポルトガル帆船隊は季節風を考えて、3月末から4月初めにインドに向けてこの港から出帆していきました。
インドのゴアに到着するまでに半年から1年、さらにゴアから日本へ向かうために、風待ちしながらマラッカ、マカオを経て、2年以上をかけて九州の港に到着しました。

大航海時代ポルトガル人の夢

大航海時代 ポルトガル人の夢

2.大航海時代 ポルトガル人の夢
大航海時代は、15世紀のポルトガル人による大西洋上の島々、北西アフリカ沿岸の探検航海に始まります。シルクロードの彼方にある豊かな大アジアはヨーロッパ人の夢でした。
オスマントルコという強大なイスラム教国家の台頭は、ヨーロッパとアジアの間に巨大な壁をつくり、この夢を消し去ろうとしていましたが、ヴァスコ・ダ・ガマ率いるポルトガル帆船隊の"海のシルクロード"開拓は、夢をよみがえらせるものでした。

東と西の出会い

東と西の出会い

3.東と西の出会い(ポルトガルと日本の交流の始まりー交易の図)
アジアに進出したポルトガル人は、マレー半島の港マラッカで当時の琉球王朝の人々(レキオス)と初めて出会いました。
このころ、ポルトガル人は中国商人の実力を知り、明との貿易を望みましたが、海禁の策(鎖国政策)をとる明政府は、南シナ海一帯に交易を求めてやって来るポルトガル人を追い払いました。やむなく、ポルトガル商人は、浙江・福建沿岸に北上、中国密貿易業者と組んで、寧波沖の島リャンポーを基地として海上貿易をおこないました。
かくて、天文12年(1543年)8月末、ポルトガル商人3人を乗せた中国のジャンク船が、種子島の南端門倉崎沖に姿を現しました。

東と西の知識の交換

東と西の知識の交換

4.東と西の知識の交換(教え学び、文化を通じての繁栄)
カトリック修道会イエズス会の東インド巡察師ヴァリニャーノは、「在日宣教師は日本の社会に順応すべし」という基本方針のもと、「日本布教は日本人の手で」と考え、臼杵にノビシャド(修練院)、府内にコレジオ(高等神学校)、安土と有馬にセミナリオ(神学校)を創設しました。
臼杵のノビシャドには、日本人6人、ポルトガル人6人が入学しました。ポルトガル人の中には、後に『日葡辞典』『日本大文典』などを著し、秀吉などの通訳を務めた日本学の大家ジョアン・ロドリゲスがいました。一方、ヴァリニャーノ自身は、大友宗麟や高山右近などから日本文化や仏教を学びました。
《絵は、ヴァリニャーノがノビシャドで学ぶ4人の少年たちに囲まれています。》

病人の看護をするアルメイダ

病人の看護をするアルメイダ

5.病人の看護をするアルメイダ(ヨーロッパ科学の導入と豊かな心)
インドや東南アジアの交易で大きな富を得た貿易商ルイス・デ・アルメイダは、弘治元年(1555年)夏に府内にやってきて、翌年、イエズス会への入会を認められました。その際、巨額の財を布教活動のために提供して建立した日本最初の西洋式病院の経営も貿易であがる利益でまかないました。
ポルトガル国王の外科医師免許状をもつ彼は、自ら外科治療をおこなうと同時に医学教育もおこないました。
こうしてルネサンス以後、急速に発展するヨーロッパの自然科学が取り入れられるとともに、肉体の治療と精神的治療とが並行しておこなわれました。

日本史を執筆するフロイス

日本史を執筆するフロイス

6.日本史を執筆するフロイス(相互理解のもとになる歴史の記述)
ルイス・フロイスは、永禄6年(1563年)6月、横瀬浦(長崎県西海町)入港の船で来日し、以後34年間、長崎で死去するまで日本布教に従事しました。その間、ヴィレラ神父の後継者として、京都地方の布教で大きな成果をあげ、織田信長にも気にいられました。天正4年(1576年)初めから4年間、豊後地方の布教長を務め、その任期中に大友宗麟が洗礼を受けています。
天正11年(1583年)秋、ヴァリニャーノ巡察師から『日本史』編纂・執筆を命じられ、天正14年(1586年)9月、下関滞在中に書き終えています。しかし、秘書官出身の彼の叙述があまりに詳細なためにヴァリニャーノの意に沿わず、原稿と数通のコピーのままで刊行されることなく、彼の失意は大きなものでした。
《最近の各国語での『日本史』刊行は、その詳細さ故に、歴史研究者にとって貴重な史料となっています。》

洗礼(天使)
洗礼(天使)
洗礼(宗麟)
洗礼(宗麟)
洗礼(天使)
洗礼(天使)


 7.8.9.大友宗麟の洗礼と祝福する天使たち
大友宗麟が日本布教長フランシスコ・カブラルによって洗礼を受けたのは、天正6年(1578年)7月のことで、ザビエルに会ってから27年が経っていました。その間、永禄5年には禅宗に帰依し、入道して宗麟と名乗り、諏訪の丘に寿林寺を創建、開山して京都大徳寺の怡雲を招いています。
洗礼を受ける直前、奈多八幡宮司奈多鑑基の娘で、重臣田原親賢の妹であった妻を強硬な反キリシタンが故に離婚し、新しく洗礼を受けさせた次男親家の妻の母にあたる人と再婚しています。宗麟の息子・娘はすべて離婚した妻との間に生まれています。

臼杵教会ノビシャドの図

臼杵教会、ノビシャドの図

10.臼杵教会、ノビシャド(地域に根付くキリスト教会)
府内・臼杵・安土・有馬に創設されたコレジオ、ノビシャド、セミナリオなどの神学校建築が、西欧風の独立した石造二階建・三階建の建築であって、鐘楼もそびえていたとする銅版画4枚を最初に掲載したのは、マルコ・アントニオ・チャッピ著「教皇グレゴリオ十三世伝(1596年ローマ版)」といわれています。
もっとも、画家でイエズス会士であったジュゼッペ・バレリアーノが文禄3年(1594年)末頃に描いた「日本からの使節を謁見するグレゴリオ十三世」の中で、伊東マンショらしき人物が教皇に示している図面に、同じ図柄のコレジオだけが描かれています。(これについては、この分野の権威である岡本良知氏の詳細な研究「天正年間に於ける豊後耶蘇会学校の建築様式」によって、まったくの想像図であることが明かにされています。)

 天正少年遣欧使肖像画
天正少年遣欧使肖像画

11.天正少年遣欧使肖像画、遥かなる旅、ローマでの歓迎大パレード(歴史に残る劇的な旅)
少年使節派遣は、当時来日中のイエズス会東インド巡察師アレシャンドゥロ・ヴァリニャーノによって計画、実行されました。有馬のセミナリオで勉学中であった4人の少年、伊東マンショは豊後の大名大友宗麟の名代として、千々石ミゲルは肥前島原の大名有馬晴信ならびに肥前大村の大名大村純忠の名代として、それに有馬大村の縁続きの随員として、原マルチノ、中浦ジュリアンが選ばれました。さらに、ローマまでの指導者としてメスキータ神父が同行することとなりました。
一行はヴァリニャーノに率いられて天正10年(1582年)2月長崎を船出、途中マカオ、マラッカ、コチン、ゴア、さらに喜望峰を迂回してセントヘレナ島に寄港の後、天正12年(1584年)8月リスボンに到着しています。リスボンからエヴォラ、マドリード、アリカンテ港、マヨル力島、リヴォルノ、ピサ、フィレンツェなどを経て、天正13年(1585年)3月ローマに到着、教皇グレゴリオ十三世に謁見しています。
中央の地図は、少年使節の「遥かなる旅」を示しており、上下にある大パレードの図は、ヴァティカン宮殿のシスト五世の間にある少年使節も加わったパレード図から教皇グレゴリオ十三世の謁見に向かう有様を想像して描いたものです。(原図は、4月にグレゴリオ十三世が死去、新しく教皇になったシスト五世受領式行幸の行列に加えられた少年使節とするのが正確であります。)
ローマからの帰途、ヨーロッパ各地で一行は大歓迎を受け、天正18年(1590年)7月、長崎に8年5ヶ月ぶりに帰り着きました。豊臣秀吉の「バテレン追放令」で帰国の遅れていた一行でしたが、結局、秀吉は京都聚楽第で大歓迎しました。
使節4人の肖像画は、向って左上が伊東マンショ、左下が原マルチノ、右上が千々石ミゲル、右下が中浦ジュリアンで、肖像画の原図は、天正14年(1586年)にドイツのアウグスブルクで発行された木版画です。
原図の木版画は、ヨーロッパ滞在中であった浜田耕作博士が大金を投じて入手、勤務先の京都大学に持ち帰ったもので、現在も同大学に所蔵されています。(木版画は、ミラノの「ウルバーノ・モンテ年代記」草稿に描かれている写実絵をもとにしたものと言われています。)

最後の使節

最後の使節

12.最後の使節~南蛮屏風絵から
 (日本文化とポルトガル文化の融合のシンボル)

南蛮屏風の制作は、豊臣秀吉が朝鮮出兵の折り、肥前名護屋城を築城、その城の壁画を描かせるため、京都から狩野光信など狩野一門の画家を呼び寄せたことに始まるといわれています。画家たちは、壁画の制作を終えて長崎に立ち寄り、南蛮人たちの生活を実見・写生して京都に帰り、南蛮屏風を描いたということです。一時期大流行したようですが、キリシタン禁教・鎖国令によってその多くが棄却され、仏教寺院などにあったものがかえって難を免れて今日に残ったとされています。
このアズレージョの絵は、南蛮屏風の風俗画を基としながらも、渡来したポルトガル人が大友宗麟を訪問しようと臼杵の町をパレードしている光景をイメージして描かれています。

荒海の航海を終えて

荒海の航海を終えて

13.荒海の航海を終えて(ポルトガル船の大航海は続く)
帆船の船長や航海士は、風や潮流など自然についての深く広い知識のほか、蓄積された経験、沈着冷静な判断や、なにものをも恐れない大胆さを必要とします。帆、船体、舵などの急速な改良と大型化、磁石・天体を利用した航法の導入と、熟練した船乗りの輩出によって、ポルトガルは大航海時代の幕を開きました。
はるばる日本へ旅立つ旅人は、リスボンを3月末から4月初めに船出、大西洋上の卓越風、赤道付近の貿易風に乗りながら喜望峰を迂回、インド洋のモンスーンの追い風を受けてモザンビーク海峡を北上、9月にゴアに到達します。
翌年4月、西風を待ってマラッカに向かう船に乗り、さらにマレー半島を迂回して8月マカオに到着、日本行きの船を待って翌年6~7月にマカオを出帆、7~8月にようやく目的地日本の港に到達することができました。約2年半の旅です。

ポルトガルと臼杵の永遠の友情

ポルトガルと臼杵の永遠の友情

14.ポルトガルと臼杵の永遠の友情
 (子どもは命の価値の永遠さを表す)

扇子の形は波を表現し、背景に津久見島など。ポルトガルと臼杵の永遠の友情と、生命の価値の永遠さを表現しています。
《真ん中の子どもは「南蛮屏風」から》

 

生誕
生誕
洗礼
洗礼
昇天
昇天

 ※入り口衝立3面のアズレージョ絵画である上記絵図は、それぞれ「生」「人生」「死」を表現した制作者の人生観・人生哲学です。

お問合せ

おもてなし観光課
  • 臼杵市役所臼杵庁舎TEL:0972-63-1111(代表)
  • 臼杵市役所野津庁舎TEL:0974-32-2220(代表)

※直通のダイヤルインや通話料金、電話交換システムに関することは、お問合せページをご覧ください。

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