公開日 2019年1月31日
更新日 2023年2月9日
古代
はじまり
臼杵地方に人が住み始めたのはいつごろか定かでありません。しかし、今からおよそ2万年以前の旧石器時代の遺跡が中臼杵地区の東台という場所から、発見されています。このことから、臼杵ではずいぶん昔から人々の生活が始まっていたことが分かります。
一方、野津川流域では日当遺跡、新生遺跡、菅無田遺跡などの旧石器時代に使われた遺跡が発掘されました。発掘された遺跡から出てきた石器の特徴と出土層位から判断すると、少なくとも2万年以上前から、この土地で人々が生活していたのではないかと考えられます。
臼杵市地名の由来
臼杵市稲田にある臼塚古墳。この臼塚古墳の入口に立っている石甲(石で作られた武人の像)が、「臼(うす)」と「杵(きね)」の形に似ており、昔から地元では「うすきね様」と呼ばれ親しまれてきたことから「臼杵」の地名が起こったと言われています。
(写真:国指定重要文化財「石甲」)
中世
謎に包まれた臼杵石仏
古園石仏大日如来像に代表される国宝臼杵磨崖仏は、平安時代後期から室町時代初期にかけて彫られたと考えられています。
臼杵石仏は、一体誰が何のために彫ったのか?古くからの伝説に登場する真名長者夫婦が作らせたのではないか?また、臼杵地方の有力者だった臼杵氏が作ったのではないかなど様々な説が考えられています。しかし、真実はいまだに歴史の彼方に隠されたままです。
(写真:大日如来像)
「野津」の成立
歴史上における「野津」という地名の成立は、11世紀中頃ではないかと考えられています。
少し時代は下りますが、13世紀の土地台帳によると、「野津院(=大友氏の荘園)」は60町(現在の60ヘクタール)で、大友一族の定住と開発が伺えます。
大友氏と臼杵
大友義鑑 (宗麟の父)から、野津武士団(佐土原氏・吉岡氏・波津久氏など)は直接文書を受け取っていました。また1550年の「二階崩れの変」で重傷を負い、2日後に没した義鑑は、野津院寺小路の到明寺に葬られました。
戦国時代、九州6ヵ国を治めたキリシタン大名・大友宗麟が、永禄5年(1562年)、四方を海に囲まれた天然の要塞であった丹生島に丹生島城(臼杵城)を築きました。ここから、城下町「臼杵」の歴史が始まります。宗麟時代の臼杵は、明やポルトガルの商人が行き交う国際的な商業都市として栄えました。
現在、臼杵城跡には大友宗麟のレリーフ(日名子実三作)と当時の大砲「国崩し」のレプリカが設置されています。
近世
佐志生とリーフデ号の到着
慶長5年(1600年)春、一隻のオランダ船が、臼杵市佐志生に到着しました。船の名前は「リーフデ号」、航海長はイギリス人「ウイリアム・アダムス(日本名・三浦按針)」、水先案内人はオランダ人の「ヤン・ヨーステン」でした。2人はその後、大砲などの武器を操作する技術や西洋の新しい技術を買われ、徳川家康の外交顧問として活躍。リーフデ号の到着は、日本の大きな転機となった事件のひとつでした。
三浦按針の詳細はこちら
城下町臼杵の始まり
大友氏の除国後、福原氏、太田氏を経て、慶長5年(1600年)稲葉貞通が美濃から入封し、明治維新の廃藩置県を迎えるまでの270年あまり、稲葉氏の歴代藩主によって統治されました。
現在の臼杵の町並みの大部分は、この稲葉氏の時代に形成されました。当時は、城を中心に、商家が建ち並び、その外側を武家屋敷や寺院が取り囲むように町が整えられていきました。曲がりくねった迷路のような町並みは今も臼杵に遺されています。
江戸時代の野津
江戸時代に商業活動が認められたのは城下町だけですが、野津市村や三重市は、臼杵領内では特別扱いされていました。村であるが商業活動を認められたところなので市の名称がついています。野津市は臼杵城路の中でも交通の要地となった所であり、他の豊後の戸次市、稙田市、三重市、今市などと同様交易の箇所として発展しました。
近代
最後の臼杵藩主
明治4年(1871年)、廃藩置県のため、臼杵城は廃城となり、代々臼杵を統治してきた稲葉氏は東京に住むことになりました。その15代藩主稲葉久通の長男順通の里帰りの屋敷として、建てられたのが「稲葉家下屋敷」でした。
明治35年(1902年)の建築ですが、書院造りや式台玄関、重厚な門構えなどは上級武家屋敷の造りになっており、廃藩後も旧藩主として大きな力を持っていたことがうかがえます。
西南戦争
廃藩置県後、臼杵にも時代の波が襲いました。明治10年(1877年)の西南戦争で官軍と西郷軍の激しい攻防戦が繰り広げられ、臼杵も畳屋町、田町、平清水が戦火に焼かれました。この戦いで戦死した勤皇臼杵隊の人たちの名前が刻まれた石碑が、臼杵城本丸跡の一隅に建てられています。
一方、野津郷は、三重から臼杵に向かう薩軍の通路になり野津市村東北端の古陣付近でも戦闘。この戦闘で多数の戦死者が出ました。
臼杵市ができるまで〜明治以降のうすき〜
明治
年 | できごと |
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1871年(明治4年) | 廃藩置県により、臼杵県となり、ついで豊後一円は大分県になる。 |
1875年(明治8年) | 第4大区海部郡の12小臼杵町となる。 |
1878年(明治11年) | 県下12郡を編成。北海部郡は、1町84ヵ村となり、臼杵町に郡役所を置く。 |
1884年(明治17年) | 臼杵町と二王座村、海添村、福良村の3ヵ村が合併して、役場を臼杵町に置く。 |
1889年(明治22年) | 市制・町村制施行により野津郷は川登村・田野村・野津市村・戸上村・南野津村の5村となる。 |
大正
年 | できごと |
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1918年(大正7年) | 臼杵その他に米騒動がおこる。 |
昭和
年 | できごと |
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1927年(昭和2年) | 風連鍾乳洞が国指定天然記念物に指定。 |
1949年(昭和24年) | 4月、町制施行により野津市村が野津市町となる。7月、野津町と改称。 |
1950年(昭和25年) | 北海部郡臼杵町と海辺村が合併。臼杵市政が始まる。 |
1951年(昭和26年) | 野津町と田野村合併。 |
1954年(昭和29年) | 北海部郡佐志生村、下ノ江村、下北津留村、上北津留村、南津留村の近隣5カ所を臼杵市に編入、合併。 |
1955年(昭和30年) | 野津町・川登村・南野津村の町村合併。 |
1957年(昭和32年) | 野津町に戸上村14集落(黒坂・鍋田・御霊園・福原・長小野・平野・木所・黍野・牧原・波津久・生野・内河野・利野・於無礼)が編入。 |
1962年(昭和37年) | 臼杵磨崖仏、国の重要文化財に指定される。 野津町役場庁舎完成。 |
1966年(昭和41年) | 「山内流」が無形文化財に、「東神野風流杖踊」「西神野風流杖踊」が無形民俗文化財として、それぞれ県指定される。 |
1967年(昭和42年) | スリランカ・キャンディ市と国際友好姉妹都市締結。 |
1971年(昭和46年) | 臼杵市出身の作家、野上弥生子文化勲章を受章。 |
1972年(昭和47年) | 臼杵市出身の作家、野上弥生子臼杵市名誉市民に推挙。 |
1974年(昭和49年) | 洲崎に臼杵市役所庁舎を新築移転。 |
1976年(昭和51年) | 臼杵神社の石甲、国の重要文化財に指定される。 |
平成
年 | できごと |
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1990年(平成2年) | 野津町役場庁舎増改築落成。 |
1993年(平成5年) | 二王座歴史の道整備完了。 |
1994年(平成6年) | 中国・敦煌市と友好都市締結。 |
1995年(平成7年) | 臼杵磨崖仏59体、国宝に指定される。 |
1996年(平成8年) | 第1回うすき竹宵開催。 |
2000年(平成12年) | 日蘭交流400周年。臼杵市で記念事業開催。 |
2001年(平成13年) | 東九州自動車道大分宮河内~臼杵~津久見間開通。 |
2005年(平成17年) | 野津町と臼杵市が合併。 |
2008年(平成20年) | 臼杵祇園祭、県指定無形民俗文化財に指定される。 |
2014年(平成26年) | 故 塩屋俊 氏に市民栄誉賞を授与。 |
2015年(平成27年) | 茨城県常陸太田市と姉妹都市提携。 |
2016年(平成28年) | 大分市、別府市、臼杵市、津久見市、竹田市、豊後大野市、由布市、日出町の7市1町で、「大分都市広域圏」を形成。 |
2017年(平成29年) | 金剛力士立像2体が臼杵磨崖仏59体に追加して国宝に指定される。 |
令和
年 | できごと |
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2021年(令和3年) | ユネスコ創造都市ネットワーク(食文化分野)に加盟。 |