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臼杵市内の文化財 (国指定)

公開日 2019年2月15日

更新日 2020年12月25日

国宝

臼杵磨崖仏

磨崖仏とは、山の端の崖や大きな岩石に彫刻した仏像のことです。
4群で計61体が指定されており、その規模や美術学的価値からも非常に貴重な文化財です。
磨崖仏としては全国で初めて国宝指定されています。

古園石仏<国宝・特別史跡>  臼杵市大字深田

古園石仏全体

大きな龕(ガン)の中に大日如来を中心に、左右それぞれ如来・菩薩各2躯ずつ、明王・天部各1躯ずつの計13躯が彫られています。

大日如来を中尊に密教曼荼羅を表しています。密教には金剛界と胎蔵界がありますが、大日如来が智拳印を結んでいますので、金剛界曼荼羅だとわかります。

造立年代は臼杵磨崖仏の中でも最古級で、11世紀後半頃からの作かと考えられています。

大日如来像
復原前の大日如来像

ホキ石仏 第一群 <国宝・特別史跡>  臼杵市大字中尾

阿弥陀如来及び両脇侍像
大日如来座像・脇侍如来坐像 脇侍阿弥陀如来坐像

向かって左から1.2.3.4龕と並んで彫られています。
4龕の地蔵菩薩半跏像・十王立像は、彩色が良く残っています。

地蔵菩薩半跏像・十王立像

ホキ石仏第二群 <国宝・特別史跡>  臼杵市大字中尾

ホキ石仏第二群全景

向かって左から1、2龕と並んでいます。 1龕には阿弥陀如来坐像とその脇侍に観音・勢至菩薩立像が彫られています。
平成11年には、2龕九品の弥陀左端に、不動明王像が復位されています。

阿弥陀如来坐像・観音・勢至菩薩立像
九品の弥陀・阿弥陀如来坐像

山王山石仏 <国宝・特別史跡>  臼杵市大字中尾

山王山石仏群全景

参道から急な石段を登ったところにあります。
ここの磨崖仏は、都の仏師にならって地元の人が彫ったものだと伝えられており、お顔が他の磨崖仏に比べると、何となく幼い感じに思えます。
しかし、「石の目」をよくみて彫られており、後世に出来たと思われる亀裂を除けるように、磨崖仏が彫られていることに、驚かされます。

如来坐像・脇侍如来坐像・脇侍阿弥陀如来坐像

金剛力士立像(こんごうりきしりゅうぞう) <国宝・特別史跡>  臼杵市大字古園

平成29年9月15日に国宝に追加指定されました。



この2躯の金剛力士立像は、平安時代、古園石仏と同じ時期に製作されたものと思われます。
向かって左側の像は、ほぼ原型を留めておらず、大半が岩盤より脱落しています。
もともとは、岩体から全身を彫り出していたものと思われます。
表面には赤色や黒色と思われる彩色が確認できます。
(写真は大分県教育委員会提供)


2躯のうち、向かって右側の像は、ほぼ完全な形で残っています。
左手を振り上げて金剛()((こんごうれい))を握っており、表面には赤色・黒色・赤茶色・緑色と思われる彩色が確認できます。
こちらも岩体から全身を彫り出しています。
(写真は大分県教育委員会提供)

重要文化財・特別史跡・史跡

大日石仏 <特別史跡>  臼杵市大字前田

大日石仏全景

全部で七体彫られており、向かって左から多聞天、如来三尊、不動明王、コンガラ童子、セイタカ童子と並んでいます。
中尊の如来像は高さ1.9mの巨像で、両手を膝に置いていたと思われる坐像です。額面から上胸部は破損がひどく、その形相は残念ながら知ることができません。
この石仏群のなかで最もよく像容を保存しているのが不動明王、コンガラ童子の二像で、高さ約1.5mの不動明王は、右手に剣を持ち、少し腰をかがめた姿勢をしており、衣文の手法は浅くて簡単です。また、コンガラ童子は、不動明王を仰いで合掌しており、いかにも子どもらしく、無邪気さにあふれた姿をしています。

門前石仏

観音石仏 <特別史跡>  臼杵市大字深田

通称:真名野長者夫妻坐像

満月寺境内に残る石造彫刻です。
真名野長者夫妻とは、深田に残る伝説に登場する、炭焼き小五郎と、その小五郎の妻となった玉津姫のことです。
また、連城法師は臼杵磨崖仏群を作り上げたとされる人物です。
どちらもあくまで伝説ですが、臼杵磨崖仏造立の謎に関わるとされています。

通称:連城法師坐像

木原石仏 <特別史跡>  臼杵市大字深田

仁王像 全景

満月寺の入り口に立っていたと推測される仁王像です。
今は腿の辺りまで埋まっています。
どちらの像も鼻を削られていますが、これはその昔、「仁王様の鼻を削ってその粉を煎じてのむと疫病に効く」と人々に削られてしまったからだ、といわれています。
造立年代は鎌倉時代終わりから室町時代にかけてのものと思われます。

日吉塔 <特別史跡>  臼杵市大字深田

日吉塔周辺

満月寺の北側に位置し、凝灰岩でつくられており、基礎・塔身・笠・相輪の大石五個からなっています。屋蓋四隅には、隅飾り突起がおかれていますが、別の石でつくられており珍しいものだそうです。
総高4.09mで、刻み方、大きさにおいても、我が国最大のものです。基礎四面には、それぞれ二個の格狭間(こうざま)が刻まれており、厨子(ずし)形の塔身の内方底部には経巻でも納めたと思われる深い穴があります。相輪は、笠の中央部から少しずれてはいますが、雄大・精巧で、塔全体のバランスは立派です。
造立年代は、鎌倉時代中期頃かと思われます。

※写真のネコは指定されていません。

五輪塔(中尾) <国指定・重要文化財>  臼杵市大字中尾

この石塔は、別名聖(ひじり)塔とも呼ばれており、6.70センチぐらいの間隔で二基並んで立っており、二基とも凝灰岩の一石づくりです。
向かって左方のものが大きく、総高1.52mあり、地輪は下が広く、上が狭くなっています。外輪は平面が円ではなく、角張っています。地輪に嘉応二年(1170)の刻銘があります。
また、向かって右方のものは総高1.04mで、地輪に面取りのあるのが注目されます。この塔には、承安二年(1172)の刻銘があります。
ともに、平清盛の全盛の頃の平安後期に造立されたもので、刻銘のあるものとしては我が国で二番目と三番目に古いものです。

宝篋印塔 <国指定重要文化財>  臼杵市大字深田

満月寺の北側に位置し、凝灰岩でつくられており、基礎・塔身・笠・相輪の大石五個からなっています。屋蓋四隅には、隅飾り突起がおかれていますが、別の石でつくられており珍しいものだそうです。

総高4.09mで、刻み方、大きさにおいても、我が国最大のものです。基礎四面には、それぞれ二個の格狭間(こうざま)が刻まれており、厨子(ずし)形の塔身の内方底部には経巻でも納めたと思われる深い穴があります。相輪は、笠の中央部から少しずれてはいますが、雄大・精巧で、塔全体のバランスは立派です。
造立年代は、鎌倉時代中期頃かと思われます。

宝篋印塔 全景

石甲 <国指定重要文化財>  臼杵市大字稲田

その形が、甲冑(かっちゅう)に身を固めた武人(頭部はつくられていない)に似ているところから、石甲(せっこう)とも短甲型石人(たんこうがたせきじん)とも呼ばれています。覆屋内に高さが1.5mほどの石人が二基並んで立っています。

県指定史跡でもある臼塚古墳は、今から1500年以上前の古墳時代に築かれた全長87mの前方後円墳で、古代このあたり一帯を支配していた豪族「海部(あまべ)」族の墳墓にあたります。そして、この墳墓の上に立てられた石甲は、ここに葬られたものを守衛する番兵としての武人の役割を果たしていたと考えられます。
二基の石甲は、長い年月野ざらしになっていたこともあり、だいぶ痛んでいますが、その表面からわずかながらも朱の痕跡を認めることができます。おそらく、これらがつくられた当初は全面に朱が施され、さぞかし鮮やかな武人像であったと想像されます。

石甲 全景
 

下山古墳 <国指定史跡>  臼杵市大字諏訪

石甲付近から石棺覆屋をのぞむ

芝尾地区南側の標高44mの丘陵にある前方後円墳が下山古墳です。今から約千五百年前の古墳時代につくられたもので、主軸を東西に全長68m、後円部には長さ2.5m、幅1.3m、高さ1mの家形石棺があり、くびれた部分には石甲(臼杵神社と同じものですが、上部が欠けています)が一基建っています。
昭和26年県により行われた発掘調査では、当時男女二体の人骨のほか副葬品として、銅鏡、管玉、鉄刀、鉄鏃(てつぞく=矢じり)、鉄てい(てってい=加工前の材料)などが発見されました。特に鉄ていは珍しく関係者から注目されました。

 

下藤キリシタン墓地 <国指定史跡> 臼杵市野津町大字原

             

下藤キリシタン墓地は野津川に沿ってその左岸に展開する標高130mの広原台地東北隅に位置します。ここはかつて地元の人々から「キリシタン」と呼ばれ、足を踏み入れてはいけない聖域として長く守り伝えられてきました。平成22年から臼杵市教育委員会の手による発掘調査が行われ全国でも珍しい完全な形で残るキリシタン墓地が発見されることとなり注目を集めました。
現在は、発掘されたキリシタン墓地を露出状態のまま保存することは難しいため、保存のため埋め戻しています。この墓地遺構をより多くの人に知ってもらいたいと考え、VRの製作に至りました。少しでもキリシタンたちが作ったこの墓地の壮大さを感じていただければ幸いです。

                                                                                                     

 

 

 

石造九重塔 <国指定重要文化財>  臼杵市野津町大字王子

この塔は1267年(文永4年)に建立されたもので、当時この地にあった延萬寺(圓満寺?)という寺の境内物であったといわれています。延萬寺は天正年間の島津氏侵攻により焼失したと伝えられますが、現在の小字名に「馬場」という名前が残っていることからも、相当の境内地であったことが推定されます。

塔の基礎は壇上積式で、四面には大型の格狭間(こうざま)が刻まれ、薬師如来・釈迦如来・阿弥陀如来・弥勒菩薩が陽刻されています。

石造五輪塔(備後尾五輪塔) <国指定重要文化財>  臼杵市野津町大字八里合

この塔は、弘安8年(1285)、すなわち鎌倉時代に彫られたもので、整った姿の中に鎌倉時代の五輪塔としての重量感を感じさせるつくりとなっています。
四面に梵字の銘文が彫られていますが、これらからは供養塔か墓碑であるか判断できませんでした。しかし、修復に伴い行なわれた発掘調査で、刀子、土師器、鉄釘などが出土したため、この五輪塔は墓標である可能性が高くなりました。
近くには県指定有形文化財の板碑があり、周辺には石造物の残欠が散在しており、且つ、地域の伝承では、周辺に法蔵寺という寺院があったといわれており、寺院との関連も深いと考えられます。

虹澗橋(コウカンキョウ) 
<国指定重要文化財>  臼杵市野津町大字西畑/豊後大野市三重町大字菅生

この橋は文政4年(1821年)着工・文政7年(1824年)竣工の石造アーチ式橋で、柳井瀬という瀬を渡る橋であることから「柳井瀬橋」とも呼ばれました。

この橋が造られる以前、三重市(みえいち)方面から臼杵城下を結ぶ重要な経路だった柳井瀬は、難所として知られ、年貢米の輸送にも難渋していました。しかし、臼杵城下の商人・甲斐源助、三重市の商人・多田富治、後藤喜十郎の出資により、新たに架橋されることとなり、その施工には、臼杵下ノ江の石工・井沢折平があたることとなりました。

完成以来200年近くを経た今も優美な姿を今に残しています。

天然記念物

風連洞穴 <国指定天然記念物>  臼杵市野津町大字

「竜宮城」付近

大正5年(1926年)、地元の青年団によって発見され、2年後には国指定天然記念物に指定された。奥行きは500メートルほどの閉塞型の鍾乳洞で、外気の進入も少なく、良好な環境が保たれている。
中央付近には竜宮城と呼ばれる巨大な広場があり、圧巻である。

  • 臼杵市役所臼杵庁舎TEL:0972-63-1111(代表)
  • 臼杵市役所野津庁舎TEL:0974-32-2220(代表)

※直通のダイヤルインや通話料金、電話交換システムに関することは、お問合せページをご覧ください。

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