公開日 2019年2月7日
更新日 2019年2月28日
- 地域
- その他
- 名称
- 吉丸一昌(よしまるかずまさ)
- 所在
- 備考
- 昭和62年1月調べ 平成27年2月改訂
- 説明
- 「春は名のみの風の寒さや 谷の鶯 歌は思えど 時にあらずと 声も立てず 時にあらずと 声も立てず」
この歌詞は、皆さんよくご存知の「早春賦」の一節です。
春まだ早い山里の風景を見事にうたいあげています。
春ともなるといろいろなところで多くの人々に歌われています。
この「早春賦」の作詞をした「吉丸一昌」は臼杵の出身です。
彼は、明治六年(1873)海添の吹毛で、臼杵藩士であった吉丸角内の子供として生まれました。
明治十三年(1880)臼杵小学校に入学し、高等小学校まで進みました。
その後、大分中学校(現大分上野丘高等学校)第五高等学校(現熊本大学)東京帝国大学(現東京大学)国文科に進んでいます。
小学校を卒業してからは、ほとんど故郷の臼杵を離れての生活でした。
大分中学時代、故郷や学校へ帰るときは六ヶ迫の上の御所(ごせんた)峠を通ったということです。
一昌は東京で妻と暮らしていましたが、彼女がなくなったときには臼杵に葬りました。
臼杵にはなかなか帰郷できず、先妻の墓参りにもなかなかやってこれなかった一昌ですが、やっと帰郷して墓参りができた際にも、この峠を通りました。
もう簡単には帰郷できないだろうとわかっていた一昌は、峠の道から臼杵のまちが見えなくなるとき、故郷を捨てなければならない悲しさにおそわれ、涙がひとりでに頬を伝って落ちたそうです。
後年、このときの思いをうたったのが「故郷を離るる歌」だといわれています。
一昌は、貧しい下級武士の子として、大変な苦労をしながら学業を続けてきた体験から、貧しい人々のために何とか尽くしたいと願い、大学在学中から修養塾をつくり、若い苦学生や希望を抱いて田舎から上京した者たちの衣食住の世話から勉学まで面倒を見ていました。
大学卒業後、東京第三中学校に勤めましたが、明治四十一年(1908)四月、請われて東京音楽学校教授となりました。
こうして音楽の世界に入った彼は、数多くの作詞を手がけ、「新作唱歌」十巻を表しています。
彼の詞は、小・中・女学校・家庭用など、子供達が喜んで歌う歌、誰でも楽しめる滑稽味のある歌など幅広く、多くの人々に親しんでもらえる作詞を常に心がけていました。
こうした中から今日まで歌い継がれているすぐれた作品が生まれています。
昭和五十六年十一月、県民オペラで上演されたオペレッタ(喜歌劇)「うかれ達磨」はまさにその一つといえます。
また、尋常小学唱歌の編さん委員会では歌詞主任をつとめ、中心的な役割を担ったことも、彼の大きな功績の一つといえます。