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雄嶋勝吉

公開日 2019年2月7日

更新日 2019年2月28日

 
地域
その他
名称
雄嶋勝吉(おじまかつよし)
所在
 
備考
平成元年11月調べ
説明
「雄嶋勝吉」という人物の名前を耳にしても、はてどんな人物であったろうかと考えられるかもしれません。彼は、天保十三年(1842)から安政元年(1854)まで馬術をもって臼杵藩に仕えた人です。
彼の先祖は、稲葉氏の臼杵入府とともに岐阜から付き従ってきた家臣の一人で、海添の祇園馬場(現、臼杵高校南側)の付近に屋敷地を賜っていました。旧姓は「尾嶋」でしたが、文化二年(1805)故あって「雄嶋」に改姓したと先祖書きには記されています。
「臼杵藩士録」によると雄嶋家の家禄は元高十六俵二人扶持とあり、微禄の武士であったようです。彼が、父多大夫の跡目を継いで馬役に任ぜられたときは十八俵(年間の米による給与)を支給されています。彼、「勝吉」は、家格も低く微禄の武士でしたが、人間としての道義を非常に大切にする人だったそうです。その一方で、人の下に屈服すことを良しとしない古武士的な気骨の持ち主であったとも言われています。
彼が、馬役として仕えた時、先輩に中村忠兵衛という非常に馬術に長じた、しかも藩士の馬術師範を努めるとともに藩の青年達が、その高名を慕いこぞって師事するほどの人物がいました。だが、勝吉は彼の乗り方は時流に迎合した格好良さと華麗さだけを教えるもので、いざ合戦となった場合、実用では使えないと考え、このまま彼と同じようなことをしていたのでは、いつまでたっても風下に立つばかりと思い、この際、華麗さを売り物にする馬術よりも実戦で通用する乗り方を修練するべきであると志を立て、好んで荒馬を御し、遠駆や高い所への登り降りに力を注ぎ、数年間技術を磨いたとのことです。
そして、弘化四年(1847)江戸へ赴任してからも暇を見つけては修練に励み、ついに、当時馬術の名手といわれた人たちにとって、これを成し遂げることは非常に名誉なことであるとされた「愛宕山昇降」に挑んだのです。この山は、現在の東京都港区芝公園の北に位置する標高約二十六mほどの小丘ですが、山頂までの石段は急で、馬で登ることは大変困難といわれていた所です。この昇降は、今も講談「愛宕山昇降」でおなじみの曲垣平九郎ほか数名しか成功していません。臼杵で言うならば温井の水源地跡の石段といったものでしょうか。
安政元年(1854)、勝吉はこの昇降に挑むべく江戸家老に願い出ますが、後の災いを恐れた家老は許可しませんでした。そこで彼は、藩には内緒で断行しました。その当日、愛宕山周辺は、どこで聞き及んできたのか江戸市民が大勢見物に押しかけ、黒山の人だかりだったと伝えられています。愛宕山の昇降は大成功し、人々の喝采を浴び、たちまちに江戸市中にその英名を知られることになりましたが、これを知った藩は大慌てし、これは勝吉が発狂してこのような奇行にはしったときめつけ、藩の体面を保つために彼を狂人扱いにして臼杵へ護送してしまいました。臼杵へ送られた彼は、後、憤りのうちに世を去ったと伝えられています。
臼杵からは多くの人物が出て、すばらしい活躍をしていますが、中には、世の常で世間の人々からの名声を博しながらも、ひとつの機構の中にあっては逆に目立ったことが、孤立を招き、悲運につながるといったこともあったようです。
  • 臼杵市役所臼杵庁舎TEL:0972-63-1111(代表)
  • 臼杵市役所野津庁舎TEL:0974-32-2220(代表)

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