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白石照山と学古館

公開日 2019年2月7日

更新日 2024年4月1日

 
地域
その他
名称
白石照山と学古館(しらいししょうざんとがっこかん)
所在
 
備考
平成3年5月調べ
説明
臼杵市には、若いころの福沢諭吉が学費を作るため、安政三年(1856)に臼杵藩に買い取ってもらったという彼の蔵書が保管されています。
この時、中津藩士の諭吉と臼杵藩との仲介をしたのが、元中津藩士で当時臼杵藩藩校「学古館」の儒学教官であった白石照山という人物です。
照山は中津藩の下級武士であったころ、江戸の昌平坂学問所(江戸幕府の最高教育機関)に学び、中津に帰ってからは城勤めの傍ら、学問を志す若者に儒学を教えていました。諭吉はこのときの門下生の一人です。
照山は優秀な学者でありながら、門閥制度の色濃い中津ではその才能を活かせる役職にはつけませんでした。そのため照山の待遇改善を求める彼の門下生と藩の重役とが対立し、照山は責任を取らされる形で中津から追放されたのでした。
中津を出た照山は、旧知であった月桂寺の住職、徹伝和尚をたよって臼杵に来ました。徹伝和尚は喜んで照山を迎えましたが、豊後諸藩での名声も高く、優秀な彼の学才を活かすために、藩主稲葉観通に学古館の儒学教授として推薦しました。安政元年(1854)のことです。
このころ、臼杵藩ではいわゆる「天保の改革」と呼ばれる財政再建事業の最中でした。この改革はそれまでの制度、機構をより効果的に再編成し、有為の人材を家柄にこだわらずその才能にふさわしい役職に就かせて、赤字財政を立て直すというものでした。そして、有為の人材を育てるために家老の村瀬庄兵衛(改革の中心人物)が中心となって、藩士やその子弟を対象とした藩校学古館を天保七年(1836)、三の丸惣役所内に設立しました。
照山は藩主観通や村瀬庄兵衛によって学古館教官(後に副頭取)に採用されましたが、この時辻口に屋敷地と屋敷造作料五十両を支給されるなど厚待遇で迎えられています。当時臼杵藩では改革の最中でもあり、出費は極端に制限さえていましたが、改革にあたって必要な施設、あるいは人材に対しての費用は惜しまなかったようです。これを受けて照山も藩士教育に心血を注ぎ、多くの人材を育てています。後に三菱の総支配人となった荘田平五郎もまたその一人です。
このような努力にもかかわらず、学古館に深い理解を示した観通、庄兵衛が没した直後の文久二年(1863)十二月、照山は臼杵から追放されています。この背景には門閥を無視して改革を行った庄兵衛、他国人でありながら厚遇された照山を以前から心良く思わなかった上級藩士たちの画策があったとされています。
  • 臼杵市役所臼杵庁舎TEL:0972-63-1111(代表)
  • 臼杵市役所野津庁舎TEL:0974-32-2220(代表)

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