公開日 2019年2月7日
更新日 2019年2月28日
- 地域
- その他
- 名称
- 片切八三郎(かたぎりはっさぶろう)
- 所在
- 臼杵市仁王座
- 備考
- 平成4年6月調べ
- 説明
- 「構内から留恵社の長屋門をくぐらうとすると、そとの街道を通りかかった結髪の士族がひとり笑ひながら近よってきた・・・(中略)・・・片切八三郎だった。この臼杵士族のなかでも一といはれる剣道の達人は、朱鞘の大小を腰に、錦の袋に入れた陣太刀と思へる一刀を抱へてゐた。」
これは、明治十年(1877)に臼杵へ侵攻した薩摩軍(西郷隆盛に率いられた反政府軍)と郷土防衛に起こった旧臼杵藩士による勤皇臼杵隊の戦いを題材とした、村上元三の小説「鷹の片羽」の一節です。
この小説に、主人公、池田健一郎(架空の人物)の同輩として登場するのが、ここに描かれた片切八三郎です。彼は、ご承知のように臼杵一の剣豪として知られた実在の人物です。
八三郎は弘化四年(1847)に、三百石の上級藩士、水谷左門の三男として生まれました。のち片切善左衛文の養子となり、片切姓を名乗っています。
剣は藩の剣術師範、河崎藤之亟に就いて学び、早くから頭角を顕していたそうです。二十三、四の頃には、藩の命令で高知藩へ剣術修業のため留学しています。高知は坂本竜馬や武市半平太といった剣豪を輩出しているように剣術の盛んな土地ですが、ここでも八三郎の剣技は群を抜いていて、高知藩士たちから逆に教えを乞われたというエピソードが残っています。
このように彼の剣の腕は相当なものであったようですが、家事につけても万事まめまめしく働き、養父に対しても、よく世情を話し聞かせていたり、子ども達の教育についてもよく関心を持っていたという家庭人としての横顔も伝えられています。
明治十年六月一日、薩摩軍が野津方面から臼杵に攻め込んできたとの報せを受けて、八三郎も勤皇臼杵隊一番隊の分隊長として出陣します。
午後になると、数で勝る薩摩軍は臼杵の城下まで進攻してきました。二時頃には臼杵隊は総くずれとなり、臼杵城を目指して退却しましたが八三郎は一人西塩田で戦い、敵の撹乱にあたっていました。しかし、十数人の敵兵に囲まれ、これを数名切り伏せたもののついに戦死しました。
この時八三郎は三十一歳。あとには妻と四人の子どもが遺されました。そのうち一人は妻の胎内にあり、八三郎の死後に生まれ、のちに三和銀行の頭取になった中根貞彦です。
“ちちのみの父は吾を見ずははそばの 母はわが知らず恋しき父母”
歌人でもある貞彦は、父の、そしてその三年後に亡くなった母の面影をも知らぬ悲しさをこう詠んでいます。