公開日 2019年2月7日
更新日 2019年2月28日
- 地域
- その他
- 名称
- 加嶋英国と多葉古屋二(かしまひでくにとたばこや)
- 所在
- 臼杵市浜町
- 備考
- 平成3年4月調べ
- 説明
- では、この「多葉古屋」の寺子屋をのぞいてみることにしましょう。
生徒の編成は、男子組・女子組の二組に分けられ、男子は一年から六年、女子は一年から五年までが修業年限として定められていました。年齢的には九歳くらいで入塾し、十四、五歳で卒業することが一般的であったようです。またこのほかに、席外(後に殊席)と呼ばれる研究科が、六年間の正規課程を終えて更に学問を続けたく、また優秀である男子生徒のために設けられていました。
授業は一つの教室の中で異なる学年の生徒が学習するという、現代の複式学級に似た形態で行われていました。ただ、一人の先生が一つの教室を全て受け持つのではなく、上級生が下級生を指導することが多かったようです。先生が直接指導するのは、毎年三月(旧暦)に行われる試験で、席順が五折という上位に上がった生徒をその対象としていました。
ここで学ぶ生徒達は、加嶋英国が定めたと思われる「生徒心得」という規則にのっとって、学習・生活指導を受けています。この「生活心得」には、三十二項目にわたって学習・生活態度のあり方から学習カリキュラムの設定と進級の規定、更には年中行事や賞罰の内容まで詳細に定めてあります。ことに学習・生活の態度については、朝起きてから教室で席に着いて帰るまでの動作・作法を細かく規定しており、当時の教育が単に知識を授けることを目的とするものではなかった様子がうかがえます。
この寺子屋での授業の内容は、読み書きが中心であったようです。特に「書く」事に重点が置かれていましたが、これには低学年次の“いろは”などといった基礎的なものを別とすれば、手本を筆写することによってその内容をも学習させる目的があったからと考えられます。そのため習字教材には、京詣、浪花詣など、文化・経済の中心地についての地誌的なものが選ばれていることが記録にあります。藩命で日本各地を歩き回り、諸国の地理、歴史に造詣を深めた英国のことですから、藩外への旅行が極端に制限されていた当時の状況の中で、少しでも生徒達に外の世界を知ってもらおうとしたあらわれなのかもしれません。
この寺子屋は主として生徒の月謝によって経営されていましたが、その金額については規定されておらず、生徒の家庭の状況で包めるだけの金額でよいとしていました。このため、経営は随分と苦しかったようですが、少しでも多くの子供達に学問の機会を与え、少しでも広い視野を持たせようとする加嶋父子のこの努力は、のちに野上豊一郎、弥生子夫妻をはじめとする日本でも一流の文化人を輩出したような文化的な風土を臼杵に根差したものであったといえるでしょう。
現在では、学校教育・社会教育を通して、当時に比べてはるかに多く、学ぶ機会を私達は与えられています。だからこそ、臼杵のこうした風土を、いつまでも伝えていきたいものです。