公開日 2019年2月7日
更新日 2019年2月28日
- 地域
- その他
- 名称
- 豊予要塞(ほうよようさい)
- 所在
- 豊後水道周辺
- 備考
- 平成6年7月調べ
- 説明
- 名作「風とともに去りぬ」をはじめ、ハリウッド映画黄金期の数々の名画に出演した往年の名優、クラーク=ゲーブルと、男性的な演風で多くのスペクタクル映画に登場する、バート=ランカスターが共演し、臼杵周辺を舞台とした映画があることをご存知でしょうか。昭和三十三年(1958)に日本でも公開された「深く静かに潜航せよ(原題RUN SILENT RUN DEEP)」がそれです。
とはいってもこの映画、臼杵石仏や仁王座の町並みでロケしたものではなく、舞台はもっぱら太平洋戦争中の豊後水道で、日本海軍の艦隊の動向を探る米海軍潜水艦ナーカ号と、これを追いかける日本海軍の駆逐艦秋風が、さまざまな駆け引きをしながら戦うという戦争映画なのです。この映画自体はフィクションなのですが、原作者はエドワード=ビーチという海軍中佐で、自分の体験を元にしてこの物語を書いたそうです。
太平洋戦争も中頃になると、実際にこの映画のように、米軍の潜水艦はひんぱんに豊後水道周辺で偵察活動を行っていたといわれています。これは広島県の呉に連合艦隊の停泊地があり、ここから外地に向けて出てゆく艦船がよく豊後水道を通過していたからなのです。また、逆にここを敵に突破されれば、本土の奥深くまでの侵入を許すことになるため、豊後水道は国防上大変重要な海峡であったのです。このため大正九年(1920)、日本陸軍は豊後水道沿岸の佐賀関、佐田岬、鶴見半島に大口径の大砲を据える要塞の建設に着手したのでした。
豊予要塞と呼ばれるこの要塞の建設は昭和十六年(1940)まで続けられ、最終的には佐賀関関崎、高島をはじめとし、南海部郡鶴見町鶴見崎、愛媛県由良岬など、豊後水道を挟む両岸十三ヶ所に、計四十六門の大口径砲が設置されます。これによって豊後水道はすっぽりと、その要塞砲の射程内に納まることとなったのです。
私たちの臼杵市内は内湾部であったのでこうした大砲の砲台は設置されなかったのですが、軍部が豊後水道沿岸部一帯を、軍事施設のあるなしにかかわらず要塞地帯として指定したため、昭和二十年の終戦まで、現在の臼杵市一帯は要塞の中の町として一般生活に於いてもさまざまな制限を受けることもあったのです。
特に厳しかったのは、写真撮影とその公開についてであったようです。例えば、特に要塞とはまるで関係のないような臼杵石仏の写真ですら撮影の際は許可証の提示が求められ、それを本に掲載する場合は、要塞司令部の検閲を受けて許可をもらわなければいけなかったと、戦前に臼杵を訪れた写真家、土門拳氏は語っています。また、海岸部での写真であれば、周囲に山など地形を特徴づける風景は司令部の指示で消されてしまうようなこともあったそうです。これらはすべて、要塞地帯の地形の様子などの情報が、諸外国に漏れることを防ぐためでした。また、無断で撮影を行おうとすれば、警察や憲兵による厳しい尋問が待っていたことは、言うまでもありません。
今まで笑い話になるようなことが、当時大真面目に行われていたということは、ある意味では大変怖いことなのかもしれません。それだけに今の私たちは、今後の日本の行く末を冷静に考え、見つめてゆく必要があるのではないでしょうか。