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天保の改革その一

公開日 2019年2月7日

更新日 2019年2月28日

天保の改革その一の写真
地域
その他
名称
天保の改革その一(てんぽのかいかく)
所在
 
備考
平成5年11月調べ
説明
「嫁をもらうなら臼杵から」という格言を御存知の方も多いと思います。これは一家を支えるにあたって、臼杵の女性がしっかりした経済観念と合理性を持ち合わせていることを讃えたものです。
この格言のルーツをたどると、臼杵藩が江戸時代の終わりごろ(十九世紀前半)に行った「天保の改革」との関わりが見えてくるのです。
今回は、この臼杵人の生活文化に大きな影響を与えたといわれる「天保の改革」についてお話しましょう。
江戸時代の中頃から終わり頃にかけてという時代は、十八世紀後半から続く全国的な凶作や災害のために日本各地の諸藩の経済力が極端に疲弊していた頃です。またその補填のために商人や幕府からたび重ねて多大な借金をすることにより、諸藩はいずこも深刻な財政危機に直面していました。そのためあちこちで藩政改革という財政再建事業と行政改革が行われるのですが、いずこも年貢や諸税を厳しく取りたてたり、改革派と保守派が対立を深めるばかりであったので、かえって一揆や打ちこわしを引き起こしたり、藩政が混乱したりと、そのほとんどが失敗に終わっています。
臼杵藩の台所もまた事情は同じで、天保元年(1830)には、藩の年収の六倍を越える二十六万両もの借財を抱えるという状況でした。これを現在の金額に換算するのは難しいのですが割合だけで考えれば、年間予算約百二十億円である臼杵市が、約七百二十億円もの借金を抱えている状態と同じということになります。このように財政破綻をきたした藩政を立て直すため、天保二年(1831)九月、臼杵藩第十一代藩主で当時は隠居中であった稲葉雍通は、江戸家老村瀬庄兵衛の主張を柱とし、彼をリーダーとする財政再建事業を下命しました。これが「天保の改革」です。
庄兵衛の、改革に対する主張の基本は「量入制出(はいるをはかりていずるをせいす)」というものでした。これは収入を増し、支出を抑制するという意味です。天保の改革は「量入制出」をスローガンに、庄兵衛の指揮の下、着手されたのでした。
庄兵衛はこのスローガンを実現するために、大きく分けて(一)年貢の増収をはかるとともに、現金化しやすい商品作物(七島藺など)の増産を奨励する。(二)武士も庶民も一体となって質素倹約に努め、虚礼を廃し、無駄な出費を抑える。(三)自由営業の妨げとなる株制度を一部を残して廃止し、商業活動を活発にさせる。(四)有為の藩士を育成するため藩校を設置し、家柄にとらわれない人材登用を行う、といった具体的な施策を実行に移しました。
これらの施策は当時どこの藩でも行っていたことなのですが、結果的にこの臼杵の天保の改革は成功したとされています。この時期諸藩の行った改革が失敗に終わる中で臼杵藩はなぜよい成績と成り得たのか、次号で考えてみましょう。
  • 臼杵市役所臼杵庁舎TEL:0972-63-1111(代表)
  • 臼杵市役所野津庁舎TEL:0974-32-2220(代表)

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