公開日 2019年2月7日
更新日 2019年2月28日
- 地域
- その他
- 名称
- 土すい(どすい)
- 所在
- 備考
- 平成5年1月調べ
- 説明
- 早いものでもうお正月。みなさんの食膳も、色彩り豊かなおせち料理でにぎわっていることでしょう。
日常の食生活の中で洋食の占める割合が多くなったものの、節句や年中行事の際には、やはり郷土料理をはじめとする和食が欠かせません。和食のメインといえば何といっても魚料理ですが、その成長の背景に、漁法の発達があることも確かです。
縄文時代の遺跡からは、しばしば動物の骨や角で作った釣針が出土することがありますが、弥生時代の遺跡であると、魚網におもりとしてつける土錘(土製のおもり)の出土をみることもあります。これは縄文時代の漁が個人的なものであったのに対し、弥生時代には網を使った組織的な漁が行われるようになったことを示しています。土錘の出土数はどれだけ網漁が盛んだったかを知る一つのバロメーターともいえるわけですが、飛鳥・奈良時代にその量は大きく増加し、中世に入るとさらに増大するといわれています。
平成5年頃に、発掘調査を行った円福寺(門前)と野村台の両遺跡からは大量の中世土師質土器とともにこの土錘が出土しました。これらはその出土状況から中世のものと考えられてます。大きさは長さが5~10cm、直径が5mmから1cmで、直径2~3mm程度の穴が貫通しています。これらはいずれも定置網の一種である刺網用のもので、比較的軽量なことから止水域(川の澱みなど、川水のよく流れない場所)で用いられていたと考えられます。
定置網が使われるということは、魚を大量に採ることを生業とする専業的な漁師がいたということにつながると思われます。野村台遺跡と円福寺遺跡が、臼杵川を挟んで、ちょうど真向かいという位置にあり、土錘の出土状況が全くといってよい程似ていることから、ほぼ同時期に、臼杵川で漁をする漁師集団のあったことがこれらのことから想像されるのです。
中世の料理本をみても、十六世紀初めまでは、料理の中心は鯉をはじめとする淡水魚だったようです。このため中世にはその需要が多かったので、盛んに川魚漁が行われていたようです。
ところが十六世紀後半になると鯛を中心とした海魚料理が増えてきます。これに伴って、この時代以降の土錘の出土量は大幅に減ってしまうのです。海魚料理が盛んになった背景に、やはり漁船や漁具あるいは漁法や漁組織の著しい進歩があったことは言うまでもありません。
現在では、日本を遠く離れた外国の海で採れた魚が私たちの食卓に上っています。これも技術と社会の進歩のおかげかもしれませんが、食料のすべてを国内でまかなっていた時代のことを、時には思い返すことも必要なのではないでしょうか。