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貢進生

公開日 2019年2月7日

更新日 2019年2月28日

 
地域
その他
名称
貢進生(こうしんせい)
所在
 
備考
平成4年5月調べ
説明
日本の歩んできた歴史は、外国の人々の目には時として奇跡と映ることがあるといわれています。
ことに徳川幕府が日本の政権を掌握してから約260年の間、鎖国状態を保ち、対外戦争を行わなかったにもかかわらず、明治維新後、短期間で近代国家として成長した過程は、世界の歴史家達から驚嘆と注目を集めているそうです。
明治新政府が短期間で世界水準の近代国家となり得た要因の一つとして、有為の人材を多く育てたことを挙げることができるでしょう。明治三年(1870)に布告された貢進生制度は、その魁(さきがけ)となったものです。
この制度は地方に留まっている優秀な人材を東京に集め、高等教育を授けて、日本の近代化への原動力にしようとする試みでした。
当時はまだ廃藩置県が行われておらず、江戸時代から引き継がれた藩政がそのまま残っていました。政府はその藩の石高に応じて人数を定め、貢進生として東京へ送るよう命じたのです。
臼杵へもこの布告が明治三年九月に政府から通達されました。この通達には、十六歳以上二十歳未満の優秀な人物を一名選抜して東京へ送れと命じられていました。臼杵藩では早速、国枝小六という十八歳の藩士を貢進生として選抜し、この年の十月に派遣しています。
貢進生は東京の大学南校(東京大学の前身)で、主に外国語、自然科学を学ぶように定められていました。これは、当時の日本が諸外国の学問水準に速く追いつくようにとの考えからでした。この年の十月末までに、全国から約300人の貢進生が大学南校に入学しています。
国枝小六もこの中の一人となったのですが、それから一月もたたないうちに、眼病にかかったため、政府に届け出て退校しています。
政府からは直ちに代わりのものを選抜して派遣するようにと臼杵藩へ通達してきました。これを受けて藩では、十九歳の藩士、小川邦臣を明治四年(1871)二月に東京へ送っています。彼は貢進生制度が廃止される同年七月まで、勉学に励む生活を送っていました。
貢進生制度はわずか一年にも満たないものでしたが、その後の大学制度への橋渡しとなる存在でもありました。この制度の廃止後、貢進生出身者の中から大学や海外留学へと進むものも多くいたようです。彼らは近代国家成立のために、歴史の表舞台で活躍することになるのです。
また、それとは対照的に、出身地へ帰って地域のために働こうとした者たちも多くあったことも事実です。
国枝小六はその後、臼杵尋常小学校の訓導(教諭)となり、地方教育に専念しましたが、明治十年(1877)の西南の役に際して勤皇臼杵隊に志願し、戦死しています。
  • 臼杵市役所臼杵庁舎TEL:0972-63-1111(代表)
  • 臼杵市役所野津庁舎TEL:0974-32-2220(代表)

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