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竪穴式住居

公開日 2019年2月7日

更新日 2019年2月28日

 
地域
その他
名称
竪穴式住居(たてあなしきじゅうきょ)
所在
 
備考
平成6年6月調べ
説明
古い町並みを残す臼杵市でも、ここしばらくの間で現代的な建物が多く見られるようになりました。素材も昔のような木や土ではなく、軽くて強い新建材を多用し、工期も短くて済むなど、現代人の感覚に合った技術の開発もまた活発に進んでいます。
その反面、昔ながらの伝統的な材料や技術が忘れられ、失われていることもまた事実です。昔はごく当たり前な風景だった藁葺き屋根の家、今ではほとんど見られなくなりましたが、その理由として屋根を藁で葺くことのできる人がだんだん少なくなっているということもいえるでしょう。
この藁葺き屋根、実は縄文時代から唯一現代まで残されている伝統技法なのです。
日本に初めて人間が住み始めた数万年前、人々は洞穴や岩陰など、風や雨をしのげるような場所を住み家としていましたが、約一万年前の縄文時代の初めごろから平地に住居を建てて住むようになります。この住居は地面に直径三~四m、深さ五十cm程度の底の平たい穴(竪穴)を掘り、底の部分に柱を立ててこの穴を傘のようにすっぽりと覆ってしまう屋根をかける、竪穴式住居と呼ばれるものでした。その屋根は今も残る藁葺き屋根と同じように、屋根の一番上にある棟下から細い垂木を傘の骨組みのように地面に向けて下ろし、そのまわりを草などで葺くものです。竪穴式住居は、屋根が家の壁も兼ねることが今見られる藁葺きの家と大きく異なる点の一つです。しかし、屋根の構造自体には多くの共通点が見られるため、藁葺き屋根のルーツといっても決して過言ではないでしょう。
竪穴式住居は縄文時代の初めから平安時代の初めまで約八千八百年余りにわたって脈々と造られるのですが、(中には鎌倉時代の前期に造られた例もあります)最も流行するのは今から約千九百年前~千六百年前の弥生時代中~後期のことです。この時期は米作を中心とする農耕が盛んになった時期であり、人々が一ヶ所に集落を築いて、身分・階層を伴う小さな社会組織の中で暮らすようになった頃でもあります。
平成6年の四月に江無田台地上の西の原地区で行った発掘調査では、この時期の竪穴式住居が3棟見つかっています。
3棟のうち2棟は円形の竪穴を掘るもので、直径五mの小型のものと七mの中型のものがあります。両方とも竪穴の底の部分(底面)の周囲を巡る溝(周溝)を設け、底面中央部分に火を炊いた後(焼土面)と灰を捨てたと思われるだ円形の穴を残すものです。また、屋根を支える柱が四本であっただろうことも2つに共通しています。特に中型の住居の方は入口部分の戸口の支柱と思われる柱穴の跡まで残っていて、極めてよい保存状態でした。
平成元年にすぐ近くの制札場地区を調査した際、西の原地区とほぼ同じ時期の竪穴式住居が見つかっていますが、制札場地区の住居は周溝や灰捨ての穴を造らず、柱も八本だった点で西の原地区の住居とは異なっています。この違いは造られた時期が微妙に違うことから生じたとも考えられますが、もしほぼ同時に建てられたものということがわかれば、同じ集落の中でも家の構造が違うことによって、集団の中での役割や身分が違っていた、あるいは生活スタイルの差があった、などということを考えることができる貴重な資料となることでしょう。
  • 臼杵市役所臼杵庁舎TEL:0972-63-1111(代表)
  • 臼杵市役所野津庁舎TEL:0974-32-2220(代表)

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