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御預人

公開日 2019年2月7日

更新日 2019年2月28日

 
地域
その他
名称
御預人(おあずけにん)
所在
 
備考
昭和63年4月調べ
説明
御預人と一口にいっても、一般的になじみの薄い言葉だけに一体何の意味なのか、分からないかもしれません。御預人というのは、江戸時代(1603~1869)に幕府から政治犯、思想犯などとしてとがめを受け、咎人(罪人)として藩に預けられた人のことをいいます。日本の歴史上で一般によく知られている御預人としては、主君の仇を討ち、世の中を騒がせたという理由でいくつかの藩に預けられた大石良雄を中心とした赤穂浪士が有名です。
この時代臼杵藩では、幕府の命令によって三人ほど御預人を預かっています。一人は、僧侶の了深という人物で寛文元年(1661)三月二十六日から翌年の五月十七日に没するまで、続いて越後高田藩士であった片山、彼は天和元年(1681)六月二十三日から没した宝永元年(1704)六月四日までに実に二十三年間もの長きにわたり預けられていました。
そして三人目は、幕府の天文方の役人であった渋川六蔵です。弘化二年(1845)十月三日から嘉永四年(1851)七月二十五日までの約六年間御預人となっていました。幕府の命により御預人を預かった臼杵藩の対応というのは大変であったらしく、咎人に対しての気配り、財政的負担は相当なものであったことが記録の上からもうかがい知ることができます。もし、不慮の出来事などによって御預人が亡くなろうものなら、預かった藩が逆に幕府からとがめを受け、藩のお取り潰しにつながることもあり、その精神的負担の大きさがどのようなものであったか想像できます。
特に、幕府天文方見習兼御書物奉行であった渋川六蔵を預かったときの気遣いは大変なもので、食事から衣類のこと、生活の全般にわたって微に入り細に入り、その取り扱い方や藩士の心得などを決めています。「御会所日記」の中からいくつか見てみると、まず渋川六蔵の安全を常に考え、少しの粗相もないように心がけ、昼夜怠りなく仕事(見張番)を勤めるようにとの訓示があります。食事については、お膳に並べる器は一切瀬戸物は使わず木器とすること。また箸は四寸(約十二cm)に切り詰めること。魚類は骨を抜いて出すことなどが事細かに記されており、咎人とはいえ、いかにその対応に気を遣ったかがうかがわれます。
御預人は、没後幕府から派遣された役人の検視を受けてから葬られました。了深は青原寺、片山外記は法音寺、渋川六蔵は多福寺に葬られました。今日、渋川六蔵のお墓だけが残っています。
  • 臼杵市役所臼杵庁舎TEL:0972-63-1111(代表)
  • 臼杵市役所野津庁舎TEL:0974-32-2220(代表)

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