公開日 2019年2月7日
更新日 2019年2月28日
- 地域
- その他
- 名称
- 江戸時代の新田開発(えどまっきのしんでんかいはつ)
- 所在
- 備考
- 平成6年5月調べ
- 説明
- 古代、日本人は我が国土のことを、豊葦原瑞穂国と呼び習わしていたそうです。神の威光によって栄える稲穂が豊かに実る国という意味の、この何とも美しい名前は、私たちの祖先が祖国に求めた理想の姿から生まれてきたものではないでしょうか。
稲作が中国大陸などから伝来して現在までの二千四百年間、私たち日本人と日本は、米とともに歴史を刻み、文化を形成してきたといっても過言ではありません。私たちの生活の中に今もいきづく年中行事や習慣のルーツをたどれば、そのほとんどが稲作をはじめとする農耕に関連するといわれていますし、江戸時代には世界的レベルに達していた和算(数学)や本草学(植物学)、土木技術などの科学技術の進歩は、いかに水田をうまく運用し、効率よく収穫をあげるかという農耕民としての必要性から生じたものでもありました。
また、日本が国家としての形態を整える過程は、ある意味で、いかに租税の中心であった米を能率よく確実に確保するかということであったとも言えるでしょう。それはしばしば、支配者側が重い税を課すことにもなり、日本人の半数を大きく超える農民に圧迫を加え、さまざまな悲しい出来事が生まれていたこともまた事実なのです。
江戸時代、幕府によって領地(藩)を与えられた大名は、藩を経営するための収入源のほとんど全てを、その領地で収穫された米(年貢米)としていました。このため、当時はどこの藩でも年貢米を少しでも多く、また、スムーズに取り立てることが至上課題となっていたのです。
そこで大名たちは、藩民の反感をあまり買わずに収益をあげるため、領地のあちこちを開墾し、水田を開げる新田開発に取り組むようになるのです。五万石の小さな藩である臼杵藩もまた、その例外ではありませんでした。
今から約三百年前の十七世紀後半に藩主となった稲葉景通は、特に新田開発に熱心であったようです。藩主となった五年後の延宝六年(1678)には、臼杵川、末広川、熊崎川の合流点に長堤を築いて、その中に干拓と埋め立てにより新地(現・新地区一帯)を開き、翌七年には市浜、戸室、江無田三村に広範囲な新田を開いています。これらは現在の市浜小学校区の四分の一から三分の一の面積にあたるもので、現在の常識で考えても随分と大規模な事業であったといえるでしょう。
このほかにも江戸時代になって臼杵藩内のあちこちで新田が開かれていることがわかります。例えば深田地区の水田のほとんどは、十六世紀末まで残存した満月寺(磨崖仏を主尊とする中世寺院)の跡を、江戸時代の初めに水田として開発したことが発掘調査により確認されていますし、十七世紀初めの検地帳(土地台帳)である「山口玄蕃殿御帳」には、“稲葉殿起”とか“いなば起”と書かれた土地がみられますが、これらは藩主稲葉氏によって新田が開かれたことを示すものとして知られています。
人力のみでこのような広範囲な新田を開発することがいかに大変なことかは我々にも容易に想像がつくことです。そして、こうした水田は、資源小国の日本にあって長く米の自給率を支え続けたこともまた事実なのです。
高度成長期を経た現在、私たちの臼杵市からもこうした水田が次々と消えていっています。長きにわたって日本を支え続けた、たたなずく黄金色の稲穂の風景がだんだん見られなくなっていくことを、後世の人はどう思うのでしょうか。