公開日 2019年2月7日
更新日 2019年2月28日
- 地域
- その他
- 名称
- 江戸末期の臼杵藩船団(えどまっきのうすきはんせんだん)
- 所在
- 備考
- 平成5年9月調べ
- 説明
- テレビの時代劇や各地のお祭り、イベントでおなじみの大名行列。これが江戸時代に大名が課せられていた参勤交代の際の行軍的な行列であることは皆さんもご存知のとおりです。
臼杵藩の稲葉候も、江戸時代二百六十年余りを通して、原則として隔年で参勤交代を行っていました。ただ、このような大名行列を行っていたのは大阪から江戸までの区間だけだったのです。では大阪まではどうしていたのでしょうか。実は臼杵から大阪までは、船を使っていたのです。
なぜこの区間を船で行ったかについてはさまざまな理由が考えられますが、何といっても船のほうが陸路よりも早いし、その分経費もかからずにすむことが挙げられるでしょう。また、陸路だと他の藩の領地や天領(幕府の領地)を通るため、それぞれの領主や代官に気を遣うことが多くなるので、少しでも楽に旅をしようとしたことも考えられます。
参勤交代は大人数での旅行ですので、その船の数も十五艘前後という大規模なものでした。その内容は十八世紀前半の記録を見ますと、駕船という藩主の乗る船が三艘、家臣や荷物を乗せる随行船が四艘、漕船中型五艘、小型三艘という構成であったようです。駕船が三艘あるのは、海の状況によって藩主が乗り換えを行うからです。
この船団の様子を江戸末期に船頭(船長)であった村井房文という人が「稲葉公着城臼杵港へ御入船之図」という絵図に描いていますが、これによるとこれらの船が全て艪漕ぎで、帆柱は見られません。ことに船団中最大の駕船は、排水量が約百トン~百五十トンと推定されるものですが、この船にも風によって推進力を得る帆は設けられておらず、小・中型の漕船(手漕ぎ)三艘によって曳航されているのです。
帆を使えばはるかに楽なのに、なぜ大型の駕船にまで帆を装備しなかったのでしょうか。これについては幕府の鎖国政策と大いに関係があるのです。
江戸幕府は寛永十二年(1635)に大船禁止令を発令し、海を越えて外国へ渡れるような外洋航行船の建造を禁止しました。このため、日本で建造される船は、近代船のようにしっかりとした骨組みを持たず、板を張り合わせたような構造的に非常に弱いものに限られてしまったのです。また、このような船に大きな帆を張ると、船底が平たいために帰って安定が悪くなるので、臼杵藩では安全を考えて艪漕ぎ船にしたのかもしれません。
この絵図は幕末期の様子を描いたものですが、このころ幕府は度重なる外国船の脅威に備え、大型の西洋式軍艦の建造を諸藩に許可しています。長州藩や薩摩藩といった大藩や先進的な藩がこぞって大船や技術者を擁していたこの激動の時期を思うとき、時代に乗り遅れた地方小藩の様相が、この絵図から見えてくるようです。