公開日 2019年2月7日
更新日 2019年2月28日
- 地域
- その他
- 名称
- 灰石の文化(その二)(はいしのぶんか)
- 所在
- 備考
- 平成3年11月調べ
- 説明
- 古墳時代中期に始まった臼杵の灰石の文化は、平安時代末期から室町時代にかけての、いわゆる中世と呼ばれる時代にみごとな展開を見せることになります。その中心となるのが、臼杵磨崖仏を代表とする仏教に関係する石造品です。
灰石の性質を生かしたこうした石造品の好例は、やはり何といっても深田の臼杵磨崖仏群といえるでしょう。
深田の磨崖仏は、日本の磨崖仏の中で最も優美な磨崖仏であるとも言われています。これは、日本の磨崖仏が例えば国東の熊野磨崖仏のように、どちらかといえば無骨で男性的な様相をみせている中で、深田の磨崖仏が柔和で、しなやかな姿をしていることによるのでしょう。深田の磨崖仏がこのようなやさしげな姿であるのは、石彫りの技法ではなく、木彫りの繊細な技法をもって彫刻されているからということです。日本の磨崖仏の中では珍しい丸彫(仏体の背中の方まで、全身を彫りだす技法)に近い形態、磨かれたような全身の表面整形、あるいは一部の仏体に用いられている、足などを別材で造って組み合わせる技法など、木彫りの技法を採用した様子がうかがえます。石という素材に木彫りの技法を用いることができたのは、臼杵の灰石が木材に近い性質を持っていることにほかならないでしょう。言い換えれば、他に政治的、文化的な様々な背景があるにしても、灰石が臼杵にあったからこそこれだけすばらしい磨崖仏が臼杵に造られたのだということになります。
深田の磨崖仏を製作したのは、はっきりしたことはわかりませんが、仏教の規則にのっとった像容を彫刻していることから、儀軌に通じた京都や奈良の仏師であろうといわれています。しかし彼らとともにこの政策に携わったもう一つの集団があったろうことは見過ごせません。それは地元で活躍していたであろう、在地の石工集団です。
山王山石仏群の左脇侍(釈迦もしくは薬師如来)は、中尊、右脇侍とは違った方向(やや外向き)を向いて彫られていますが、これは中尊と同じ方向に向けて彫った場合、石目が顔面の中央に来るのでこれを防ぐためだと考えられます。石目というのは岩の剥離面のことで、何か衝撃が岩に与えられた際、そこから亀裂が入ります。仏像の一番大切な顔にこの亀裂が入るのを避けるための配慮なのでしょう。この石目は灰石の特質を良く知り、経験を積んだ人でないと探すことは難しいのです。深田の磨崖仏が製作される際も、木彫り仏師に灰石の性質や扱いについて在地の熟練した石工が指導、協力していた様子がこの痕跡からうかがえるのです。
そのほか臼杵市内には、数多くの石塔(五輪塔や石幢など)などの仏教に関する中世の石造物が分布しています。中世は法然や親鸞をはじめとする念仏僧達によって庶民の間に根強く仏教が広まった時代です。こうした時代背景、豊富に産出する灰石、そしてそれを使いこなしていった熟練した石工の存在が、三位一体となって臼杵の中世灰石文化を彩っていたことは言うまでもありません。