公開日 2019年2月7日
更新日 2019年2月28日
- 地域
- その他
- 名称
- たいまつ消しの標柱(たいまつけしのひょうちゅう)
- 所在
- 備考
- 昭和55年8月調べ
- 説明
- 臼杵藩時代、領内の各地から城下へ通じる主な街道の出入り口には「是より城下たいまつ無用」あるいは「是より・・・・・・たいまつ無用」と刻まれた標柱が立てられていました。これは、夜間たいまつをかざして城下に入ってくる者は、誰であろうとこの標柱から先はたいまつを消して入ってこなければならないということを義務付けるためのものでした。また、夜間城下を出る場合もこの標柱より先でなければたいまつはつけられませんでした。
この標柱が街道の出入り口に設置されるようになった原因の一つに火災の予防ということが上げられると思います。この時代、とくに元禄から享保にかけての四十七年間に火災が多発し、臼杵藩(稲葉藩)時代の二百六十七年間に起きた火災件数のほぼ三分の一にあたる十五件が元禄から享保年間に集中して発生しています。
当時は、今日のように防火設備が十分でなく消防組織なども完備していなかったため、ひとたび火災が起きると城下の大部分を焼き尽くすほどの大火となっていました。なかでも享保十七年(1732)田町の名田屋徳右衛門の貸家から出た火は、折からの西風にあおられ、田町・畳屋町・本町裏通り・塩田・仁王座・原山・海添十間堀まで広がり、五百四十余戸を焼き尽くす大きな被害を出しました。このような大火が重なったので、藩では城下の出入り口にたいまつ消しの標柱を立てたり、城下一帯の茅葺を禁じたり、豪家及び主要所に天水桶を用意するなどして防火に努めていました。
今日、当時の火災予防の標柱を旧街道筋で見ることはできません。ただ破壊を逃れた二基の標柱だけが市立図書館に移され、ひっそりと庭の片隅に立てられています。