公開日 2019年2月7日
更新日 2019年2月28日
- 地域
- 佐志生・下ノ江地域
- 名称
- 千反塚(せんたんづか)
- 所在
- 臼杵市下ノ江栗林
- 備考
- 昭和57年10月調べ
- 説明
- 下ノ江の赤松天神社東側の坂道を200mばかり上がった台地の南側斜面に「千反塚」と呼ばれている珍しい塚があります。
塚は直径約2.5m、高さ0.5mの土饅頭型をしたものです。眼下には、東へゆっくりと蛇行しながら港へと注ぐ下の江川とその両側に開けた湿田を一望することができます。
この塚の由来については、はっきりとしませんが、地域の言い伝えによると、その昔、源氏の棟梁であった八幡太郎義家が、その晩年何らかの理由から畿内の所領から離れざるをえなくなり、わずかな家の子郎党を伴い九州へ下向(当時の都から地方へ行くこと)しました。源氏の旗印である「白旗」をかざした小船が豊後国下ノ江の湊に着いたと言われ、かざしてきた旗を巻いたところ、千反になったこと、更にその人物の死後、塚をつくり埋葬したところから人々に「千反塚」と呼ばれるようになったと伝えられています。また当時、下ノ江の湊に着いた高貴な武将が八幡太郎義家その人であると知る人もなく、名前もわからなかったため、人々は、その人物を千反塚の名に因んで「千反塚」と呼んでいたともいわれています。
源義家といえば、平安時代の終わりごろ(十一世紀後半)藤原摂関家にに仕え、各地で起こった所領・相続の係争に関する朝廷や反乱の鎮圧に一族を率いて活躍し、その武勇や部下への思いやりが深かったことから人々の信望を集め、天下第一の武将として、また武家の棟梁として、往時としては最高の地位についたことは有名です。
この塚の東側には、八幡太郎の屋敷跡と呼ばれている場所もあり、源氏ゆかりの地として、今なお、地区の人々に親しまれています。