公開日 2019年2月7日
更新日 2019年2月28日
- 地域
- 海辺地域
- 名称
- 中山古墳と祠(なかやまこふんとほこら)
- 所在
- 臼杵市大字諏訪
- 備考
- 昭和63年1月調べ
- 説明
- 臼杵市内を北から南へと流れ、湾に注ぐ熊崎川両岸の台地先端には、いくつかの古墳が築かれています。不思議なことに市内にある古墳は、熊崎川の流域だけに限られるという現象が見られます。この流域に所在している古墳の中で特によく知られているものに、五世紀の中ごろに造られた臼塚古墳、下山古墳の両前方後円墳があります。
臼塚古墳は、全長87mと県内でも有数の大きなものです。また、石棺の内部に副葬されていた品々から見て、ある時期臼杵から佐賀関、坂ノ市、大在に至る旧海部地域を支配していた豪族の墓と考えられています。
中山古墳は、両古墳のちょうど中ほどの位置、熊崎川東岸の大字諏訪字後中山の台地先端にあります。古墳の三方は、昔採石が行われたため、切り立った崖になっています。墳丘の部分は、開墾による削平を受けているため、墳形をはっきり伺うことはできませんが、周辺の地形から見て円墳であったと考えられます。南側の崖付近には、緑泥片岩の組み合わせ箱式石棺の一部が露出しています。古老の話によると、明治期に石棺の発掘が行われたと伝えられています。
また、この石棺から北西へ4mほど離れたところに凝灰岩で造られた高さ70cmほどの祠がありますが、この中には弥生時代の祭祀具としての銅戈が一点納められていたということです。
祠の中には、次のように刻まれた碑が納められています。
利根川道孝
清田太郎鎮忠
当家之
土佐國一條権中納言泰政公
祖先
清田新五左衛文阿波守泰政公乃
姫君霊
天正六年三月十八日
これは、土佐國(現、高知県)の国司であった一條家に連なる方の霊を祀ったものです。これがどのような理由からこの場所に安置されたのか明らかではありませんが、天正二年(1574)、土佐の土豪長宗我部元親によって国司であった一條兼定が豊後に追われたという記事から見て、当事丹生島城にいた大友宗麟を頼って一族が臼杵に来たことは考えられます。その一族がここに祀ったものと言えそうです。