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古泳法

公開日 2019年2月7日

更新日 2019年2月28日

 
地域
海辺地域
名称
古泳法(こえいほう)
所在
 
備考
昭和62年8月調べ
説明
降り注ぐ真夏の太陽、その光を受けてまばゆく照り輝く大海原。その海辺の一画で水しぶきをあげて泳ぐ大勢の子供達。毎年、七月下旬から八月上旬にかけて中津浦の鯉来浜(けいれいはま)で見られる夏の風物詩、古泳法「山内流」の練習風景です。この時期は、学校が夏休みに入ることもあって、古泳法をぜひとも習得しようと市内はもちろん、市外からも多くの小・中学生が訪れます。猛暑の中、水しぶきを上げて練習している姿は壮観です。
この泳法は、四国松山の人で諸国遍歴の途中、臼杵に立ち寄った山内久馬勝重が藩士の稲川源左衛門清原冬吉(せいげんとうきち)に伝授したのが始まりです。臼杵藩は、海に面した土地を広く領有していたこともあって、古くから水術が盛んでした。しかし、まだ一つの泳法としての形が整っていたわけではありませんでした。この水術が「山内流」という一つの流派として体形をなしたのは、勝重が稲川源左衛門冬吉(清記・せいき)に泳法を伝授した文政五年(1822)のことです。
この年の十月から翌年の三月まで源左衛門は、福良の柚の木谷(旧サントリー臼杵工場南側谷間の地)で教えを受けています。このとき源左衛門は39歳でした。短期間で免許皆伝を受けた泳ぎ達者であったといえます。この後、古泳法の山内流を極めた源左衛門のもとには、泳法を習得しようと藩士の子弟達が続々と訪れ、教えを請うようになったそうです。まさに彼が山内流隆盛の礎を築いた祖といわれている所以です。その彼も天保十一年(1840)三月二十日、56歳で亡くなっています。その墓は、小河内の天満社南隣の丘陵斜面に建てられています。墓石の正面(東側)には「速往院大道義堅居士」の銘が刻まれています。(平成14年9月17日、市指定史跡として指定されました)
彼亡き後も古泳法は多くの人々に支えられ、今日までその伝統が受け継がれています。当時、遊泳場としては、臼杵川河口の洲崎が選ばれ、練習の最終日には、大演習会が催されています。演習には藩主も鑑賞に訪れ、その御前で水神祭、御覧前(ごらんまえ)、砲術、水書、馬術、やぐら飛、煙火打上、手足溺(てあしがらみ)、具足脱着、水中宴会等が演じられました。この後、遊泳者が整列し、洲崎から諏訪まで大旗、小旗、刀、槍、銃などを持って泳ぎ渡る「渡海」も披露されています。これらの演じ物はほとんど変わることなく現在にまで継承されています。
  • 臼杵市役所臼杵庁舎TEL:0972-63-1111(代表)
  • 臼杵市役所野津庁舎TEL:0974-32-2220(代表)

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