公開日 2019年2月7日
更新日 2019年2月28日
- 地域
- 上浦・深江地域
- 名称
- 琵琶ヶ鼻の砲台跡(びわがはなのほうだいあと)
- 所在
- 臼杵市下り松
- 備考
- 平成元年7月調べ
- 説明
- 市内には、「臼杵の歴史」を語る際に欠くことのできない遺跡や遺物が数多く残されています。時代時代における世の中の動きに応じて作られ、或いは利用されてきたものが、時の移り変わりとともに、人の記憶の中から次第に忘れ去られてしまい、長い年月、人の手も加わらず、雑草に覆われていたり、倉の隅に追いやられていたりといったことがしばしば見られます。
琵琶ヶ鼻の砲台跡もそうしたものの一つです。現在は、深く雑草が生い茂り、訪れる人もほとんどなく、この遺跡が、歴史(時代)の要請を受けて生まれたものであることを知る人は少なくなっています。この砲台跡は、江戸時代の終わりごろ(十九世紀中頃)臼杵藩領の海岸線防備のために設けられて砲台跡の一つです。この当時、藩領の海岸線に五つの砲台が作られました。楠屋鼻(泊ヶ内と津久見市の境)、竹ヶ鼻(板知屋区の現天神ヶ鼻)、琵琶ヶ鼻、殿ヶ礁(以前の下ノ江少年自然の家の下)、的場山(津留地区)、将棊頭(東中グラウンドの北側)の五ヶ所です。今、砲台跡として残っているのは琵琶ヶ鼻と将棊頭の二箇所です。琵琶ヶ鼻の砲台跡は、下り松の一番臼杵湾に向かって突き出した丘陵の先端、標高約三十メートルのところに位置しています。砲台跡は、丘陵の北斜面を削りだし、コの字型をした高い土塁のような形に作られています。東西の長さおよそ十二メートル、南北の長さ八メートル、幅約三メートル、高さ二.五メートルをはかる非常に大きな施設となっています。
この時代、日本は鎖国政策をとっていたため、外国と接することはなく、唯一、例外的にオランダ国とだけは長崎の出島を通じて関係を維持していました。しかし、十八世紀後期になると、日本の近海に出没する外国船の数は益々増え、中でも北太平洋に移動する鯨の群れを追って来たアメリカやイギリスの捕鯨船が、淡水や食料を求めて我が国の海岸に接近することが多くなりました。沿海の諸藩は、補給のため海岸に接近した外国船に対し必要品を供給し、更に国法を説明して再び来ることの内容言い含めましたが、ほとんど効果はありませんでした。国法によって、渡来した外国船は穏便に帰帆させるよう指示されている反面、警備を特に厳重にするよう定められているので、海を持つ諸藩は、警備をおろそかにすることはできず、財政難に苦しんでいた当時の諸藩にとって大きな負担となっていました。臼杵藩の場合は、安政二年(一八五五)、藩士川崎重房の海防論をとり入れ、自領の海岸線防備のために、先に述べたような砲台を設置しました。