公開日 2019年2月7日
更新日 2019年2月28日
- 地域
- 下北地域
- 名称
- 古人骨は履歴書(こじんこつはりれきしょ)
- 所在
- 備考
- 平成6年4月調べ
- 説明
- “虎は死して名を残す”という格言がありますが、虎も人も、時には骨や歯だって残してくれることがあります。殊に人類に関していえば、二百万年以上前の“猿人”といわれたころからの骨が見つかっていることや、これらが人間の進化のようすを知る上で大変貴重な資料となっていることを皆さんも御存知のことでしょう。
近頃では、さらにこうした先人の遺産である骨を分析、研究する形質人類学の進歩により、十万年以上前の骨であっても、骨の主がどういう環境でどういう生活を送ってきたのかがある程度わかるまでに至っています。
臼杵市稲田の臼塚古墳は、今から約千六百年前に造られた、全長約八十七mという県内で五番目に大きい前方後円墳として知られています。この古墳の石棺に納められていた人骨は非常に保存状態がよく、別府大学で形質人類学による鑑定をしたところ、大変興味深い事実が判明したのです。
臼塚古墳から出土した人骨は男女二体ずつの計四体なのですが、この四体には一つの共通点が見られます。それは外耳(耳の穴)に認められた外耳道骨腫という小さな骨のふくらみなのです。
外耳道骨腫は、長い間潜水作業に携わった人たちにできやすいもので、臼塚古墳の被葬者たちが、海に潜ることを仕事としていたことを物語るものです。
また、これらの人骨は一号石棺(大きいほうの石棺)、二号石棺(小さいほうの石棺)に男女一対で埋葬されており、それぞれが夫婦であることもわかっていますが、石棺の形や骨の状況から、一号石棺が初代夫婦で、二号石棺が二代目夫婦であることも考えられています。つまり臼塚古墳は親子二代にわたって潜水作業を生業とした人たちのお墓であるとのことなのです。
しかしながら、臼塚古墳は県下でも最大級の古墳の一つで、当時は臼杵周辺一帯を支配する大豪族の墓といわれてきた古墳です。それなのに今で言う市長クラスの存在がわざわざ海に潜る仕事をしなければならなかったのかと思う方もいらっしゃるでしょうけど、やはりこれが当時の支配者のあるべき姿であったと考えることはできないでしょうか。
古代、こうした潜水作業や航海技術に長けた人々やその集団を「海部(あまべ)」と呼び習わしていました。彼らは航海技術や海産物を貢ぐことによって時の朝廷に奉仕し、その存在を認められていたわけですが、海部の長は、やはりこうした技術が優れ、統率力のある者でなければならなかったのではないかと思われます。
例えば、一号石棺の初代夫婦の方はかなり体を使った苦労をしたために病質で、体格も華奢であったことがその骨から伺え、二代目の方は夫婦とも初代に比べて病質でもなく、体格も大きいことから初代ほどの苦労はなかったことがわかりますが、五世紀のはじめになって突然、臼杵の海部の長が臼塚古墳を築くような大豪族に成長した背景には、一号石棺の初代夫婦の並々ならぬ努力の過程があることを、この事例は物語ってくれます。このように“死して骨を遺す”ことの方が、名を遺すより遥かに強い説得力を以ってその人の有様を今に伝えてくれるようです。
死後は火葬にされ、骨を後世に残しにくい今日、本当に社会を支えているのは誰たちなのかを後の人々に伝えにくくなったのは、何だか残念なことです。