公開日 2019年2月6日
更新日 2019年2月28日
- 地域
- 下北地域
- 名称
- 西鍛冶屋の層塔(にしかじやのそうとう)
- 所在
- 臼杵市西鍛冶屋
- 備考
- 昭和62年12月調べ
- 説明
- 市内井村の西鍛冶屋地区には、西方寺跡、あるいは西蔵寺跡と呼ばれているところがあります。その昔ここにお寺があったと地域の人々の間に言い伝えられています。ここは、末広の黒丸橋から井村台地に向かって、曲がりくねった急な坂道を百mばかり登りきった台地の先端にあたります。現在、この十数m西側には国道217号線のバイパス、熊崎バイパスが通っています。
寺跡と伝えられている場所には、その名残を示すかのごとく、層塔の一部と傾いて倒れそうなかわらぶきの小堂があります。層塔は、基礎と軸部を残すだけで、外の部分はありません。軸部の上には、いつごろのせられたのかは不明ですが、同じ材質(凝灰岩)で作られた屋根がのせられ、軸部を保護しています。
基礎石は、幅111cm、軸部は幅64.5cm、高さ55cmをはかる大きなもので、軸部の四面には刻銘があります。南面には、永和元年(1375)乙卯十一月十五日、願主各
敬白 の銘が刻まれています。東面には、播磨、妙阿をはじめとして、三郎五郎、重宗など、武士や尼僧の名が二十三名、西面には、見有太郎、善信沙弥など四名、北面には、親輔、輔道、了意、圓教など、武士や僧、尼僧の名が十五名それぞれ彫られています。
この軸部に刻まれた人々の数から見て、この層塔はある僧、武士を含めた集団が、それぞれの祈願を塔に託して造立したものと考えられます。それは、死者の菩提を弔い、あわせて造立者自身が塔を建てたという善行に対しての功徳を受けようとして、舎利や経典などを供養して納めたものであったかもしれません。
ここに刻まれた永和という年号が示すこの時代は、世の武士団が南朝と北朝に分かれて各地で激しく戦った不安の多い時代でした。永和の年号は、北朝の年号であり、この年号を使用するということは、臼杵を含めて豊後の武士団が北朝にくみしていたことをうかがい知ることができます。
この層塔の東側の小堂内には、高さ30cmほどの地蔵様が祀られ、その台座には、朱が施された層塔最上部の笠が使われています。また、この寺跡と考えられる周辺地域には、多くの五輪塔が残されており、往時の寺の大きさがしのばれます。