公開日 2019年2月6日
更新日 2019年2月28日
- 地域
- 下北地域
- 名称
- 坊主山(ぼうずやま)
- 所在
- 備考
- 昭和57年4月調べ
- 説明
- 坊主山などと聞くと、「そんな妙な名前のついた山が臼杵にあったかな・・・」と思う人と、「それはうちのすぐ近くにある山のことだ」などと思われる人が、きっといらっしゃると思います。この山は、井村の配水池の北側に位置する標高約77mの小さな山です。ここからの展望は、すばらしく、井村の台地やその下に広がる湿田が一望できます。一見しただけでは何の変哲も無い山ですが、かつてこの山の中腹から臼杵の古代史を解き明かすような一大発見がありました。
昭和27年12月18日、井村出身のある少女が、山芋探しをしている最中、偶然にも青緑色をした金属器を七口発見しました。これが、「銅矛」と呼ばれる青銅器でした。(現在京都国立博物館に所蔵)
この銅矛は、いずれも弥生時代後期(今からおよそ千八百年前)につくられた銅器で古代集落の共同祭儀に用いられたものと考えられています。これらは、いずれも他のものを伴わず単独で、一本あるいは数本、数十本とまとめて地中に埋められた形で発見されることが多く、しかも発見される場所が平野や台地を見下ろすような山腹に多いことから、豊穣を祈るための地霊への埋献あるいは祭儀終了後の埋蔵などと推定されています。このほか祭儀に用いられたと考えられる青銅器には、「銅剣・銅戈・銅鐸」などがあります。これら青銅器は銅戈も含め、それぞれ独自の分布圏をもっています。銅矛は、九州東北部から四国にかけての分布を示し、文化あるいは村落共同体の政治的な関係が推察されます。
坊主山に立って周囲を眺めるとき、風のさざめきにのって、田畑で農作業に精を出していた往時の人々の豊穣に対する厚い祈りが聞こえてくるようです。(H14.10月一部修正)