公開日 2019年2月6日
更新日 2019年2月28日
- 地域
- 下北地域
- 名称
- 栗山城跡(くりやまじょうし)
- 所在
- 臼杵市中尾
- 備考
- 昭和56年5月調べ
- 説明
- 下北小学校から北西へ約1km三重野台地と南北に長い中尾台地に包み込まれるような形で、細長くのびる舌のような形をした台地があります。
台地の三方、東・西・南側には、切り立った岩肌がそびえ、深い谷がめぐっています。ここが栗山城跡です。複雑な自然地形を巧みに利用し、中尾、三重野台地につらなる北側には、この方面からの敵の侵入を防ぐため、東西の谷へ向けて土塁と空堀がつくられています。今でも中尾地区から城跡へ通じる細い山道を行くと、入口部分に地表から1.5mほどの高まりを残している土塁を見ることができます。現在、城跡には、しの竹や雑木が生い茂っているため全体の姿をうかがうことはできません。わずかに残った土塁や空堀跡だけが、往時の城の様子を物語ってくれます。
また、この栗山城には、城主であった吉田一祐(よしだいちゆう)にまつわる悲しい話が伝えられています。大友宗麟の家臣であった一祐は武勇の誉れが高く、天正十四年(1586)十月に島津の軍勢が臼杵に侵攻してきた際、仁王座の切り通しに打って出て敵を追い散らし、数多くの武功を立てて宗麟から「月山の長刀」を拝領しました。
大友家滅亡後も一祐は臼杵に残り、栗山に館を構えていました。この当時、丹生嶋城には城主として太田一吉が入っていましたが、この一吉の家来に高橋六右衛門尉という人物がおり、一祐が宗麟より拝領した名刀をしきりと欲しがりましたが、断られたため、その腹いせに無理難題を吹きかけ、最後、一祐はじめ一族郎党は、武力によって一人残らず討たれたということです。中尾から栗山へ通じる草深い山道には、今も吉田一祐をまつったといわれる石塔が残っています。