公開日 2019年2月6日
更新日 2019年2月28日
- 地域
- 上北地域
- 名称
- 白木峠茶屋跡(しらきとうげちゃやあと)
- 所在
- 備考
- 昭和61年2月調べ
- 説明
- 鉄道やバスなどの交通機関をもたなかった江戸時代の人々にとって、臼杵からちょっととなりの大分や津久見・野津へ出かけるといっても今と違って大変なことだったと思います。
海や大きな河川が目的地まで続いている場合は、船を交通の手段とすることができますが、平野部が少なく、山の多い豊後の地にあっては、ほとんどの人が「歩く」ということを最良の手段としていたのではないでしょうか。
そのため、となりの城下や村々へ通じる主要な道路(街道)は常に整備され、そこを通行する人々への便宜がはかられていたようです。その一つに街道のところどころに設けられていた茶屋が挙げられます。
山が多い地形であるため主要な街道も必然的に起伏の激しいものとなります。急な坂道を登り降りし、ホッと一息つけるような場所に茶屋は設けられ、通行人が疲れを癒すための休憩所、あるいは草鞋を提供する場所としての役割を果たしていました。特に、通から廣内を通り府内へと抜ける府内街道は、起伏に富んでいるため白木峠にあった茶屋は旅人にとって格好の休憩所となったようです。
「古史捷」という記録によれば、この白木峠に松原村の万治という人が居を構えていて、家の前の往来(街道)を行き来する多くの人々が草鞋を売って欲しいと来るが、藩からの商売を許可されていないのでできず、旅人に不便さを与えている。通行人の便利をはかるため、沓場(茶屋)を構え、商売を始めたいと藩に願い出て、弘化四年(一八四七)三月、一代に限って許可されています。
往来の人々で賑わった峠の茶屋も時の移ろいと共にいつしか姿を消してしまい、今日ではその跡地で見られる数々の器から往時の賑わい振りを偲ぶことができます。