公開日 2019年2月6日
更新日 2020年2月19日
- 地域
- 上北地域
- 名称
- 末広焼の窯跡(すえひろやきのかまあと)
- 所在
- 備考
- 昭和59年4月調べ
- 説明
- 末広焼といえば「ああ、あの色合いの焼物だな」と思い起こされる方も多いのではないでしょうか。この焼物が焼かれた場所は、末広善法寺地区の通称皿山と呼ばれているところにあります。
この皿山のあたりでは、昔から焼物の破片がたくさん拾えた事から窯の存在が考えられていました。またこのことは、臼杵藩の記録の一つである「古史捷」という文書の中に、享和二年(一八〇二)若林右衛門太、飯沼小平次両人が稲葉家十代の藩主であった弘通公の命を受け末広皿山に窯を開き、同年に肥前島原、筑前小石原、延岡小峰から陶工を招いたとあること。更に、文化元年(一八〇四)、下末広村の和太七という者が、末広焼の販売許可を藩庁に願い出て、許されていることなどの記事が見えることなどからも確実視されていました。昭和59年の二月~三月にかけて行われた皿山の発掘調査で、登り窯が二基発見され、これが実証されました。
いずれも、山の緩やかな斜面を切り開いて築かれていました。そのうちの一基は全長約十七.五メートルで焚口と焼成室(焼物を焼く部屋)五室からなり、部屋が上に行くほど扇状に広くなるものです。
焚口と最上室との高低差は三.五メートルもあります。また各部屋の南側には、窯詰めしたり出したりする幅六十~七十センチの出入り口もついています。この皿山の窯は、文化十二年(一八一五)、開窯からたった十三年間で閉じられてしまいましたが、現代に甦った窯跡を目にする時、自分達の技を精一杯つくし仕事をしていた往時の陶工たちの様子を髣髴させてくれるものがあります。