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積石塚の発掘調査

公開日 2019年2月6日

更新日 2019年2月28日

 
地域
中臼杵・南津留地域
名称
積石塚の発掘調査(つみいしづかのはっくつちょうさ)
所在
臼杵市左津留
備考
平成6年3月調べ
説明
山村部の集落付近や山の中を歩いていると、時折、高さ1~2m、直径2~3mくらいの小さな土盛りを見かける場合があります。そしてその前に、榊や色花が供えてあり、土盛りの上に上がろうとすると「罰があたるかもしれませんよ」と地元の人から軽く窘められることもあります。こうしたときのこの土盛りは供養塚であるか、或いは中にお経を埋納した経塚であることが多いのです。
以前「ふるさと再発見」で紹介したことのある(平成元年三月号・第144回「謎の積石塚」参照)左津留の積石塚も、昔の合戦での戦死者を供養する供養塚として語り継がれているものでした。
去る平成五年十二月、この積石塚が所在する周辺一体のほじょう整備工事が行われるために、臼杵市教育委員会によって積石塚の緊急発掘調査が二週間の期間で行われました。
調査は十分の一の実測図(塚の縮小平面図)作成の後、積石塚の周囲三箇所と、塚の中央を南北に横切る形で試掘溝を掘って、この石塚がいつ、どのような目的で造られたのか、造られた頃の周囲の様子はどのようなものだったのかなどを明らかにする目的で進められました。その結果、この石塚は今の田んぼの床土面から拳大の石だけを積んで造られたものであること、石塚の中にはお経や人の骨などを埋めた様子が無いこと、また、出土した陶磁器の年代からこの石塚が造られたのは少なくとも江戸時代以降であること、などが判明したのです。また、ここが田んぼとなったのも江戸時代くらいの頃で、それ以前は河原か湿地であったこともわかりました。
地元の伝承では、永享七年から八年(1435~36)にかけて行われた姫岳合戦(中国地方の太守・大内盛見を攻め殺した豊後の領主・大友持直を、時の将軍足利義教が四国・中国地方の諸将による連合軍を以って臼杵市神野・乙見地区周辺で攻めさせた合戦)の戦死者と同じ数の石をここに積んで供養したという話、いつの合戦かはわからないが、このあたりの戦いでの捕虜の首を刎ねてここに埋めたという話などが今に伝えられています。調査の結果、こうして大合戦のあった頃に造られたものではない事は判明しましたが、後の時代に地元の人たちが、かつてここで戦死した多くの武士達を憐れんで、田んぼを造る時に併せて、この供養塚を造ったのかもしれません。
調査期間中、南津留小学校の子供さんたちが何度も調査現場を訪れては、熱心に見学してくれました。寒い中、本当にありがとう。皆さんは昔、この土地で悲しい戦争があったことに驚いていたけれど、その戦死者を憐れに思い,供養を続けてきたのは皆さんのご先祖様やおじいちゃん、おばあちゃん、ご両親たちなのです。皆さんもこうした人たちのやさしい心を受け継いで、もっともっと臼杵のことを良く知ってほしいと思います。そして私たち大人も、皆さんの将来が明るいものであるよう、やさしく、思いやりのある臼杵の町を造っていかねばなりませんね。
  • 臼杵市役所臼杵庁舎TEL:0972-63-1111(代表)
  • 臼杵市役所野津庁舎TEL:0974-32-2220(代表)

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