公開日 2019年2月6日
更新日 2019年2月28日
- 地域
- 中臼杵・南津留地域
- 名称
- 板川野の石塔群その二(いたがわののせきとうぐん)
- 所在
- 臼杵市川野
- 備考
- 平成4年12月調べ
- 説明
- では、なぜこれだけ多くの石塔がここに建てられたのでしょうか。
地元の伝承や資料によりますと、かつてこの場所あたりに「中仙(中泉)寺」という寺院があったことが伝えられています。明治23年(1890)に編纂された「寺院明細長」という資料には、この中仙寺が慈眼寺の庵室であり、その当時には無住の庵であったと記されています。中仙(泉)寺に関する資料の中で一番古いものは、十八世紀半ばに書かれた「臼陽寺社考」ですので、少なくともこのころから明治の半ば頃にかけて、この寺が存在していたことがわかります。ただ、何時ころから慈眼寺の庵室となっていたのかは、はっきりとわかっていません。
石塔群の中に宝暦四年(1754)に建立された「光明真言塔」がありますが、これは密教の影響を受けた石塔で、死者の極楽往生を祈念する塔といわれています。慈眼寺は元和元年(1615)に禅宗である臨済宗に改宗していますから、なぜこの塔がここに造られたのかも、一つの疑問です。
光明真言塔にせよ、石塔群の中に多く見られる「庚申塔」や「六地蔵塔」は一段にその地域の人々による講(ある特定の神仏を祀る人々で組織する団体)によって建てられることが多かったようです。こうした講は、宗教組織的なものであったのと同時に、庚申待(60日に一度来る庚申の日の夜に、人間の体内から抜け出して、その人の悪行などを天界に報告する虫を天に行かせぬよう、酒宴を催したりして徹夜する行事)を行う庚申講のような、娯楽的な性格を持ち合わせるものでもありました。
中仙寺の推定地は狭い場所で、建物が建っていたとしてもごく小さな庵寺のようなものではなかったかと思われます。江戸時代にはこのような小さなお寺、お堂が各村々ごとにあったようですが、その境内は、村の鎮守様と同じように村人の共有地的な性格を持っていたようです。ですから中仙寺周辺の村人達が共同で、自分達の属する講が侵攻する対象にまつわる石塔を、ここに建てていたことが考えられるのです。
ただ、こうした石塔が建てられたのは、それぞれの記銘から十七世紀末から十八世紀末の100年間に限られていることがわかります。それ以降のものはただ一基、安政三年(1858)銘のある墓碑で「山田邑銀蔵 當庵ニ而落髪也」と、墓の主である銀蔵は、この庵で出家したとの記銘のあるものだけです。寺は存続していたものの、何らかの理由で講による造塔がこのころにはされなくなったことがうかがえます。
川野の石塔群についてはまだまだ不明な点が多いのですが、多種多様な石塔が一ヶ所に集中していることは、当時の農村部における信仰のあり方を考える上での大変貴重な文化財であることに間違いありません。