公開日 2019年2月6日
更新日 2019年2月28日
- 地域
- 中臼杵・南津留地域
- 名称
- 神野路と一つ墓(こうのじとひとつはか)
- 所在
- 備考
- 平成元年5月調べ
- 説明
- 若葉がいっせいに芽を吹き、みずみずしい新緑の香りがあたり一面に漂う春の神野路には、訪れた人々の心を和ませてくれる様々な自然の景色があります。
乙見から県道津久見・野津線(県道24号線)を通り、およそ6kmほど南へ進むと東神野地区に至ります。途中の山道は幾重にも折れ曲がり、車を運転するものにとっては、気を抜くことのできないコースですが、新緑に包まれた山間の道から次々に移り変わる山や谷の景色を楽しむのは格別です。道端に咲き乱れる黄色やうす赤色の草花、さえずり渡る小鳥達の声、騒々しい町の中からここへ来ると、同じ臼杵であっても別世界の感があります。
一口に東神野と言ってもその周囲は広く、上忠野(かみちゅうの)・下忠野(しもちゅうの)・上宮本・下宮本・川原内の五つの集落から成っています。地区の北東部は、姫岳・碁盤ヶ岳をもって津久見市と接し、東および南部は弥生町と、西部は臼杵川を挟んで旧野津町と境を接しています。
東神野地区は、春祭り(熊野神社祭礼)がすんだ時期が比較的ゆったりと落ち着いた雰囲気に包まれます。五月晴れの空に春風をいっぱいに受けて泳ぐこいのぼり、空の青さと山の緑とがごく自然にとけあった中で見るその姿は、一幅の絵になりそうです。
この地域は、古い時代から開けていた集落だけに、至るところに歴史をうかがわせる石造物があります。それら石造物の中でも珍しいものが一つあります。それは、地元の人々から「一ッ墓」と呼ばれているものです。宮本の小・中学校から川原内へ向かう大きなカーブを曲がってすぐの山側にあります。石の祠と五輪塔の水輪・地輪とを積み重ねたものです。本来は、別々であったものが、いつしか一つに重ねられたものと思われます。
地元の言い伝えによれば、この墓は姫岳の合戦において戦死した武将を弔った墓だと伝えられています。姫岳の合戦というのは、大友持直や大友親著、親繁らの軍と大内持世、河野通久(伊予国守護)らの室町幕府連合軍とが、永享七年(1435)に姫岳およびその周辺で戦ったことを言います。地の利に詳しい大友軍は、幕府軍をあしらい、山や谷の奥へ奥へと誘い込み、挟み撃ちをして幕府軍を敗走させています。このときの合戦で幕府軍は、伊予国の守護であった河野通久をはじめ多くの将士を失っています。
この一ッ墓には、誰が葬られたのかはわかりませんが、静けさに包まれたこの地でお墓に相対していると、故郷を離れ戦で命を散らしていった武将達の無念さが遥かな時の流れを越えて伝わってくるようです。