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謎の積石塚

公開日 2019年2月6日

更新日 2019年2月28日

 
地域
中臼杵・南津留地域
名称
謎の積石塚(なぞのつみいしづか)
所在
 
備考
 
説明
市内竹葉の三叉路信号から左津留川に沿って走る県道川登・臼杵線を南へ700mほど進むと道の東側を南北に伸びている中尾台地の裾に接して、これもやはり南北に細長く広がっている田んぼの一角に他の場所より一際高く盛り上がっている所があります。遠くから眺めると饅頭のような形をしています。直径およそ3m、高さ1.2mほどの高まりです。ここには、人頭大の石や拳大の石やらが幾千個となく積み重ねられています。大部分が河原石とよく言われている硬質の砂岩や珪岩です。なぜ、この田んぼの一角だけにこのような積み石塚みたいなものがあるのか不思議ですが、地元の古老の話によると、その昔このあたりで大きな合戦が行われ、一面が血の海となったそうです。この合戦で亡くなった人々の霊を慰めるため、亡くなった人の数だけの石を積み上げ、塚として祀ったということです。記録の上ではこの地域で合戦が行われたかどうか明確に記されてはいませんが、記録には記されていない戦いというものがあったのかもしれません。いずれにしても、今日に至るまで、亡き人々の霊を慰めるため、大切に塚を守りつづけている地元の人たちの敬虔さ、厚い信心には頭の下がる思いです。このような積み石塚は左津留の集落中にももう一つあります。
左津留地域は、古くから人々が生活を始めたところの一つです。この谷あいを含め、周辺の尾首・左津留の台地、中尾の台地などからは今から一万年から千七百年位前の縄文・弥生時代の人たちが使用していた土器や石器の破片をたくさん採集することができます。このように、当時の生活道具の一つであった土器や石器の破片を簡単に見つけることができる点から考えても、このあたり一帯は、昔から川や山をひかえ、生活に必要な食糧を比較的容易に入手することができた、生活に適した土地であったといえます。人々が住み、集落が形成されるようになれば、当然人と人との行き来、文化の交流、そして物資の流通が始まります。仲でも文化の交流については、人の流れや物資の流通と異なり、文化の影響を受けたものが形として残ることが多く、はっきりとその姿をつかむことができます。
中世から近世にかけて、この地域は仏教文化の影響を強く受けた土地であることが、現在も残っている六地蔵塔や五輪塔、庚申塔などの石造物からうかがえます。豊後における仏教文化の中心地とも言える中尾・深田地域の臼杵石仏群、その出入り口にあたっていたこの土地は、新しい文化の波を常に受けていたと思われます。そこから、石仏群を中心とした仏教文化とは異なる、地域に住む人々の生活に根差した文化を生み出し、はぐくみ、開花させ、今日の左津留地域の人々の深い信仰心を培ってきたものと思われます。
  • 臼杵市役所臼杵庁舎TEL:0972-63-1111(代表)
  • 臼杵市役所野津庁舎TEL:0974-32-2220(代表)

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