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武山の馬宿跡

公開日 2019年2月6日

更新日 2019年2月28日

 
地域
中臼杵・南津留地域
名称
武山の馬宿跡(たけやまのうまやどあと)
所在
臼杵市武山
備考
昭和61年8月調べ
説明
平野部より山間部の占める割合が高かった県南地域にとっては、地上の交通網、すなわち、大量輸送の一翼を担うバスやトラック等のための道を整えることが、人々の交流や物資の流通を促進し、地域間の文化や産業・経済の振興を図るために大きく役立ってきました。
このため、急坂の多い山道は起伏の少ない谷あいに、複雑に曲がりくねっている道は、まっすぐな道に、また、道幅の狭いところは拡幅するなど盛んに道路改修が進められてきました。昭和十年(1935)臼杵と三重町とを結ぶ臼三バイパスの開通はまさに道路改修の結果、生まれたものといえます。これより前の臼杵と野津・三重とを結ぶ主要な街道(野津・三重街道)と言えば、山や丘陵等比較的起伏の大きいところを通っていたため、必ずしも便利が良いとはいえませんでした。
したがって、交通の手段としては、歩くこと、牛馬を利用することなどしかなく、牛馬は、もっぱら物資を運搬するために用いられていました。牛や馬の背に荷を載せ臼杵の城下から野津市・三重市や岡城下へ、更にその逆へと頻繁に往来していました。
道中が長いため、途中、旅人の休憩所として茶屋が、牛馬のためには馬宿が設けられていました。この馬宿跡が、大字武山字田崎(通称、大工川)にあります。改築されたため馬宿の建物はありませんが、家の前庭には当時の馬宿を物語る石畳(凝灰岩の切石)だけが残されています。土地の古老の話によると、明治時代までこの宿があったとのことです。まだ夜が明けやらぬうちに荷駄を積み三重や野津を出発した人々は、東の空が白みはじめた頃、臼杵の城下を遠望できる通称殿が鼻と呼ばれる山の端につき、そこから眼下に見える馬宿まで降りて休憩を取り、牛馬には、オカラやフスマとワラを切り刻んで混ぜたえさなどを、鼻取りの人々にはチラシ寿司などを食べさせたという話です。
馬宿跡から山の中をとおって野津に抜ける旧街道は、通る人がほとんど無く荒れていますが、他の街道に比べると道幅も広く、旅人の往来道のみならず、生産・生活物資を積んで頻繁に牛馬が往来する生活道路としても賑わいを見せていたことがうかがえます。
  • 臼杵市役所臼杵庁舎TEL:0972-63-1111(代表)
  • 臼杵市役所野津庁舎TEL:0974-32-2220(代表)

※直通のダイヤルインや通話料金、電話交換システムに関することは、お問合せページをご覧ください。

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