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善住寺跡と石幢

公開日 2019年2月6日

更新日 2019年2月28日

 
地域
中臼杵・南津留地域
名称
善住寺跡と石幢(ぜんじゅうじあととせきどう)
所在
臼杵市半三
備考
昭和63年7月調べ
説明
市内半三地区には、古来より堂ノ原と呼ばれている所があります。ここは、ちょうど集落の北のはずれにあたり、「善住寺」と言われた寺が会った場所として知られています。
周辺の環境は、大規模な畑地整備によって大きく姿を変えてしまいましたが、寺跡がある一角だけは雑木や雑草が生い茂り廃寺跡としての面影をとどめています。寺の建物などは全く残っていませんが、境内にはその名残をとどめる二基の宝篋印塔が人知れず密やかに立っています。塔にはかずらが巻き付き、すぐにはこれが石幢だと気づかないほどです。塔そのものは本来の形をしたものではなく、部分によっては、別の石塔の部材を持ってきて組み合わせて一つの形を造りだしているものです。
更に、境内地の西端部分には、江戸時代後期に作られた庚申塔も数基立ち並んでいます。これらの石塔は、何れも長い年月にわたって風雨にさらされながらも今日まで残ってきたものばかりであり、そこからは深い歴史の重みを十分に窺い知ることができます。
江戸時代中頃に著わされた「臼陽寺社考略記(寛保元年=1741)」によれば、この善住寺はその建物に付けられていた古い棟札の銘によって、天正五年(1577)雄城左近将監(おぎのさこんしょうげん)という人物によって建立された寺であるということが記されています。
また、当時の本尊であった古作の木像聖観音像に宝永四年(1707)二月、彩飾を施し、同年十月十八日には、臼杵城下の光蓮寺において開帳したとあります。更に同じ頃、お堂を修復して本尊を安置したとも記しています。善住寺の本尊が彩飾後、どうして光蓮寺において開帳されたのかわかりませんが、察するに何らかの関係が両寺にあり、善住寺のお堂修復の間、光蓮寺が本尊を預かり、一足先に彩飾なった本尊像を信者に見せたと考えることができるかもしれません。
またこの半三地区は、古くから地蔵信仰があったらしく集落の中ほどにある観音堂境内には「半三石幢」と名づけられた六地蔵塔が一基あります。総高2.62mで、笠は深く、笠の内部(龕部)に浮き彫りされている六体の地蔵像と二体の仁王像を覆い隠すかのようにのせられています。この塔の仁王像は珍しく、一体は横向きに彫られています。室町時代中期の作と推定されている石幢で、昭和四十九年十一月一日に市指定有形文化財の指定を受けています。
  • 臼杵市役所臼杵庁舎TEL:0972-63-1111(代表)
  • 臼杵市役所野津庁舎TEL:0974-32-2220(代表)

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