公開日 2019年2月6日
更新日 2019年2月28日
- 地域
- 中臼杵・南津留地域
- 名称
- 矢道(やみち)
- 所在
- 臼杵市東神野
- 備考
- 昭和60年12月調べ
- 説明
- 東神野地区には、「矢道」と呼ばれていた山道が残っています。昭和の初めごろまでは、旧市内とこの地域とを結ぶ主要な幹線道としての役割を果たしていました。谷あいに沿ってはしる現在の道路が整備されるまでは、人々の行き来も荷物の運搬も全てこの矢道に頼っていました。
この矢道という名の由来については諸説ありますが、古老の話によるとこの道は、山の急斜面や幅の狭い尾根に石を積み上げてつくられ、下から見ると尾根に長い土手ができたような状態になりました。そのためこの斜面に入ってきた猪や鹿が高い土手状の道を越すことができませんでした。そこを猟師が弓矢や長槍、鉄砲などで容易にとることができたため、矢道と名づけられたということです。
この山道は江戸時代の初め頃東神野に住んでいた吉内(きちね)という人物が、山庵寺に隠棲されていた賢巌禅師の指導を仰ぎつくったと伝えられています。当時、城下から姫嶽の下を通り東神野に出、さらに三重や竹田に通じる主要な街道となっていたこともあってか道幅は広く1~1.5mほどあります。
また、城下から三重・竹田方面へ臼杵湾でとれた魚の干物や塩物が、かの地からは米や野菜類などが牛や馬の背にのせられ、頻繁に運ばれていたといわれています。
竹田行きゅすりゃ 雪霜かかる帰りゃ 妻子がはいかかる
と今も残る駄賃取り唄(馬子唄)が、往時の荷物運搬の様子を語ってくれます。