公開日 2019年2月6日
更新日 2019年2月28日
- 地域
- 下南地域
- 名称
- 家野の飛行場(いえののひこうじょう)
- 所在
- 備考
- 平成2年8月調べ
- 説明
- 家野台地は、平野部の少ない臼杵には珍しく、広々とした土地の広がるところです。この、何となくのんびりとした感じのする現在の田園風景からはちょっと想像がつきにくいのですが、太平洋戦争中、ここに軍の飛行場がつくられていたことをご記憶の方も多いと思います。
この飛行場は、「臼杵秘匿飛行基地」と呼ばれていた海軍の航空基地です。この基地には、現在の商業高校から家野公民館のあたりまでに至る長さ600m、幅60mという規模の滑走路と、三棟の格納庫、そして地下式で、二十四畳くらいの広さの司令室が設けられていました。
この基地の建設は、太平洋戦争も終わりに近づいたころの昭和二十年六月九日に始まりました。作業にあたったのは、楯部隊と呼ばれる海軍軍人による設営隊、旧制中学生や女学生などの動員学徒、それに勤労奉仕ということで動員された臼杵や津久見の人たちです。多いときで、五百人近くが動員されていたとの事です。
当時、日本には建設機械が普及していなかったため、作業は全てシャベルや鍬による手作業だったそうです。臼杵川の河原で砂や砂利をすくってモッコと呼ばれる籠に入れ、それを畑に撒いて地ならしをして滑走路にするのが主な作業だったそうです。
設営隊員の中には四十歳を越えた年配の兵士も多く、夏の重労働の上に、食糧事情が悪かったため、食事もほんのわずかしか与えられていなかったとのことで、ずいぶんきつそうに見えたそうです。中には空腹に耐えかねて、地元の人に炒り豆をねだって、それをむさぼるようにして食べる年配の兵士も多くいたそうです。「あんなにかわいそうなこともなかった」と、当時この作業に参加していた深田地区の方が語ってくれました。
八月はじめには、司令室に無線機などの機器が設置され、基地も完成間近だったのですが、最後の仕上げ作業を行っていた八月十五日、ついに完成しないまま終戦を迎えました。
この基地は”秘匿”という文字が示すように、軍の秘密基地としてつくられたものでした。その目的は、日本本土近海に押しよせていた連合軍の軍艦へ体当たり攻撃を行う特攻機を、敵に発見されないうちに発進させることにあったとの事です。
昭和二十年、連合軍が日本本土に近づくようになると、こうした秘匿基地や正規の基地から、連日のように多くの特攻機が飛び立っていきました。
この決して生きて帰ることの無い特攻作戦での戦死者は四千六百名。その三分の二は、17歳から22歳の若者であったそうです。