公開日 2019年2月6日
更新日 2019年2月28日
- 地域
- 下南地域
- 名称
- 馬代と茶屋場跡(ばだいとちゃやばあと)
- 所在
- 備考
- 平成元年12月調べ
- 説明
- 馬代という地名を聞くと、多くの人が最初に思い起こすのは「名勝白馬渓」ではないでしょうか。
「白馬渓」という名称が「馬代」という地名の代名詞となるほど広く知られています。この白馬渓は、江戸時代後期の天保の頃、渓谷とそれを包み込んだ周囲の木々とが織り成す自然の美しさ、見事さに心をひかれ、度々この地を訪れていた橋本貞彦(俗称、繁右衛門)が、この土地こそ、神祇の神(天と地の神)を安置するのに最もふさわしい霊地であると考え、田町の富商清水善七をはじめ、崇敬の念の深い同志らとはかり、この地に祠を建立することの願いを藩に出し、茨や雑木等を刈り、道を築き、谷川には石橋を架けるなどして参道の整備を進めました。そして、天保四年(一八三三)、現在の位置にお伊勢参りにいけない人々の便宜をはかることもあって、伊勢神宮外宮の祭神である「豊受大神(とようけのおおかみ・食物の神)を勧請したといわれています。白馬渓は、四季折々の美しさがあり、この変化を楽しむために年々訪れる人が多くなっています。今でこそ白馬渓が馬代の代名詞のようになっていますが、「馬代」という地名そのものも非常に由緒あるものなのです。馬代の首藤家の家系図によると、馬代という地名の由来について、次のように記しています。
首藤家の第七代、石見守言常(いわみのかみことつね)の時、主君として仕えていた大友氏第二十代の修理大夫義鑑に駿馬を一頭献上したところ、義鑑は大いに喜び、馬料として大永四年(一五二四)に臼杵に構えていた茶屋場所(休養所或いは別荘か)の一部を与えたとあります。石見守が、馬をあげたかわりにもらった土地であるところから、この土地を「馬代」と名づけたと記されています。また、義鑑が構えていた茶屋場は、現在の馬代台地と東側の谷を挟んだ向い側の台地までの範囲であったようです。臼杵川に面した馬代台地の南端部には、茶屋場の大手門(一の門)があり、屋敷は、馬代の小野(現、字小野殿か)という所にあったとも記されています。馬代に土地を賜った首藤石見守はここに居を構え、天文十九年二月十二日に没しています。この日は奇しくも大友義鑑が大友館でおきた「二階崩れの変」で亡くなった日と同じです。これは全くの偶然なのか、それとも義鑑の死と深く関わっていたのか定かではありませんが、非常に興味深いところです。
首藤石見守の墓は、悠久の時を越えた今も馬代堰を見下ろす場代台地の南端に立てられています。