公開日 2019年2月6日
更新日 2019年2月28日
- 地域
- 下南地域
- 名称
- 稲荷堤と美蔭松(いなりつつみとみかげのまつ)
- 所在
- 備考
- 昭和62年11月調べ
- 説明
- あたり一面、黄金色に輝く大海原、市内の田んぼのあちらこちらで、この光景を目にすることができました。今はもうすっかり刈り取りが終わってしまい黄金の海を見るのは、又来年ということになりましたが・・・。市内の米どころといえば、昔からだいたい下北地区と下南地区というのが相場でした。今日では、各地でほ場整備が進み、田んぼは古代の条里よろしく、ほぼます形に区切られ、機械力の導入をたやすくした集約農業に変わり、どのような場所でもかなりの収穫を得ることができるようになりました。
米どころの一つ、家野地区には昔から米の収穫を得るようになるまでの悲喜こもごもの話が残っています。治山治水は国の礎とよく言われますが、農業に従事する人々にとって水を治めることは絶対の条件です。米づくりに水は欠くことができません。家野の田は地形的に川面より高い位置にあり、いつも水不足に泣かされていました。しかし、家野村に住んでいた岩崎陣房、正房親子の努力によって、文政七年(一八二四)に岩崎井路が完成し、田に水が引かれるようになってからは、水不足で泣くことも無く、美田が見られるようになりました。この当時、臼杵川の家野側の土手には稲荷様を祀った小さな祠があり、その傍らには枝振りの見事な美しい古松があったと言われています。ある時、第十一代の藩主雍通公が狩猟の途中、この松の木の下で涼をとるために休憩した際、枝振りのあまりの見事さに愛でて「美陰松」という名をつけたということです。この美陰松も安政年間(一八五四~五九)にその枝振りが逆に災いし、田んぼをあまりにおおったため、稲の育ちが悪くなるとの理由で、郡役人に大きく切られてしまい、ついに枯れてしまったとの事です。この松は臼杵の三名木の一つに数えられていたものだけに惜しまれていました。
また、稲荷祠は明治六年(一八七三)の大洪水で流失してしまい、今は往時をしのばせるものとしては、わずかに稲荷堤と呼ばれている土手がその面影をとどめているにすぎません。