他のカテゴリも表示する

野村台地の二つの墓石

公開日 2019年2月6日

更新日 2019年2月28日

 
地域
下南地域
名称
野村台地の二つの墓石(のむらだいちのふたつのはかいし)
所在
臼杵市野村
備考
昭和62年9月調べ
説明
臼杵は、大友宗麟による丹生島への築城以後、今日まで城下町として栄えてきました。しかし、現在にいたる間、まったく平穏に城下町としての営みを続けてきたわけではありません。この間に町は三度ほど大きな兵火を受けています。
最初は、天正十四年(一五八六)島津軍の豊後国侵攻によって、丹生島城を攻められた時。二度目は、大友吉統の豊後除国後、臼杵城主となっていた太田一吉が関が原の合戦において西軍に組し、東軍の岡藩主中川秀成と臼杵で一戦を交えた慶長五年(一六〇〇)。三度目は、明治十年(一八七七)の西南戦争における臼杵隊・警視隊と西郷軍との戦いです。
これらの歴史的にも大きな出来事は記録が残されるので全体の内容を把握することは容易にできますが、それに関わった人々の個々の動きというものは、あまり知られることがありません。ただし、それらの出来事に関わった人が、日記という形で記録していれば話は別ですが・・・。そういうことは、当時としてはまれであったと言えます。
したがってほとんどの場合、当事者が亡くなった後、金属や石にその人の事績を彫りこんでたたえるということが多かったようです。こうして刻まれた記録の中には当時の歴史の一断面を如実に物語ってくれるものが多くあります。その一つに野村台地の東端付近にある凝灰岩の二基の墓石があげられます。
この墓石は、慶長五年臼杵において太田一吉軍と戦って死んだ岡藩士、野溝宗勝と田近之成のものです。この碑文によると関が原の合戦の折、中川秀成は東軍に組していましたが、東軍を裏切って西軍に加担したという流言飛語によって苦境に陥ってしまいました。この誤解を解くため、秀成は甥の寺井小七郎を人質とし、家臣の野溝宗勝、田近之成の両名を熊本の加藤清正に遣わし、逆心のない旨を弁明させ、この弁明を聞いた清正は疑いを晴らしました。使命を果たした両名は、主君に報告すべく岡城に向かったが、途中阿蘇谷にいたり、両名の使者が戻るまで出陣はしないと言っていた約束が破られたことを知った二人は、大いに怒り、ただちに臼杵に駆けつけるや原山に陣を敷いていた秀成に清正よりの返答を復命しました。そして復命し終えるや祇園洲にあった臼杵城の大手門へ向かって、まっしぐらに抜け駆けし、城兵に戦を挑み、壮烈な戦死をしたと記してあります。
察するに二人の行動は、秀成が約束を守らなかったことに対しての意趣返しではなかったかと言われています。この墓碑は、藩の記録では到底知ることができないような歴史の側面をうかがわせてくれます。なお、この墓は寛延二年(一七四九)田近氏の子孫が建てたものです。
  • 臼杵市役所臼杵庁舎TEL:0972-63-1111(代表)
  • 臼杵市役所野津庁舎TEL:0974-32-2220(代表)

※直通のダイヤルインや通話料金、電話交換システムに関することは、お問合せページをご覧ください。

このページの
先頭へ戻る