公開日 2019年2月6日
更新日 2019年2月28日
- 地域
- 下南地域
- 名称
- 円福寺跡(えんぷくじあと)
- 所在
- 臼杵市前田門前
- 備考
- 昭和61年4月調べ
- 説明
- 市内門前地区には、円福寺と呼ばれていた寺跡があります。この寺跡は、門前地区から水ヶ城のテレビ塔へ通じる道の途中に位置しています。近くには、国の特別史跡として指定を受けている「大日石仏」(一般的には、門前石仏と言う名称で知られています)をはじめとして、市指定史跡の「門前地下式横穴」、同じく名勝「白馬渓」そして中世の寺院であった「海蔵寺跡」など市民に広く知られている遺跡が所在しています。正の遺跡の集合地域と言っても過言ではないと思います。
円福寺跡といっても、現在ではその寺の所在位置を明らかに示すような建物跡(礎石や基壇)などを地表で見ることはできません。しかし、寺跡と推定されている地域に散布している、その当時使用されていた「やきもの片」などの遺物から、或いは今日にいたるまで残る「ナゴヤ」「大日」「立中(塔頭)」「堂山」「寺前」などといった地名などから考えて、この円福寺と称していた寺は確かに存在してたと見ることができます。寛保元年(1741)太田重澄によって著された「臼陽寺社考略記」によれば、名護屋山円福寺は、かなり昔に建立され、その本尊としての十一面観音も作者不明ですが、古くからこの地に鎮座していたと伝えられています。この寺には、はじめ万如院という修験者がいたが、その後、海添村薬師坊の常覚院という者の二男が跡を継ぎ宝乗院と名乗り、ここを守っていた。しかし養母との折り合いが悪く寺を去ってしまい、暫く無住であったと記されています。この後は、海添村観音坊の修験者であった金剛院秀海法印、その婿となった般若院信盛法印や良海法印などが守ったこと、さらに、寛文四年(一六六四)、織部通廣公により、茅葺堂と門が建立され、同十年(一六七〇)にはお堂が瓦葺になったことなども記されています。
この円福寺がいつのころ建立されたのか文献によって明らかにすることはできませんが、それを探る一つの手がかりとして、大日石仏との関連が考えられます。仏像は、寺の主尊仏として、あるいは諸々の信仰の対象仏として彫られることがほとんどです。中尾・深田地区の磨崖仏が古代末期から中世末期(12世紀~16世紀)に至るまでの満月寺の主尊仏であったと同様に、この大日石仏もまた円福寺の主尊仏ではなかったでしょうか。この大日石仏の中心をなす三体の坐像は平安末期(12世紀)の作と考えられています。
この点からすれば、円福寺もまた平安末期に建立され、古代・中世を通じて、満月寺と勢力を二分するような大きな寺院として存在していたと考えることもできそうです。(H14.10月一部加筆修正)