公開日 2019年2月6日
更新日 2019年2月28日
- 地域
- 市浜地域
- 名称
- 田篠原と臼杵氏 その2(たしのばるとうすきし)
- 所在
- 備考
- 昭和64年2月調べ
- 説明
- 田篠原には、豪族がこの地を居館としていたことを示すいくつかの資料が残っています。その一つに当時、「臼杵姓」を名乗っていた豪族のお墓があります。台地東端部の桜馬場に二基、鍛冶屋原の北に接して広がる讃岐園と呼ばれる土地に一基あります。
前者は臼杵氏の初代時直と七代鑑速の墓、後者は六代長景の墓です。時直の墓は二段の台座の上に基礎石がのり、更にその上に塔身部が重ねられている総高二百三十三センチの大きなものです。鑑速の墓はその南側に建てられ、総高百六十センチの板状のものです。長景の墓は二段の台座の上に基礎石が乗り、更にその上に位牌型をした塔身部が乗せられています。何れも正面には、没年月日と戒名が刻み込まれています。
この地で生活をしていたと思われる「臼杵姓」を名乗る豪族とはどのような一族であったのか見てみると、この一族は豊後大友氏の系譜を引く氏族であることが判ります。大友氏第二代親秀の次男であった重秀が「戸次姓」を名乗り戸次氏の初代となり、さらに戸次氏第五代貞直の時三男時直が「臼杵姓」を継いで、豊後大友氏の流れを組む臼杵氏の祖となっています。そして、海部地域、特に丹生荘や臼杵荘(自分の領地)を治めるためにこの地に移り住んだものと考えられます。初代時直の墓碑に元徳二年(一三三〇)に没したと刻まれているところから推測して、少なくとも十三世紀の終わりごろか、十四世紀の初め頃には田篠原に移ってきたと思われます。その後は、領地の経営をはじめ、大友本家の重臣の一人として歴代の当主は活躍しています。
このほか、臼杵藩の時代になって編纂された記録「古史捷」の中にも臼杵一族が住んでいたことを間接的に物語る資料を見ることができます。それは、現在でも江無田地域の古老によって語り継がれている黄金伝説とも関係するものかもしれませんが・・・。記録では、享保八年(一七二三)田篠村に住んでいた惣七という者が畑仕事をしている時、畑の畦の所から古銭七百文を掘り出し、藩に届け出たところ、発見者に下されたと記されています。この古銭七百文とある部分こそ大きな意味があるのです。これはおそらく中国貨幣の北宗銭か南宗銭のことを指していたものと思われます。もし、当時使用されていたものならば、古銭とは書かず、ただ銭とだけ書いたと考えられます。中世において銭は一枚一枚が価値をもつものではなく何貫目という重量がお金としての価値をもっていました。このように掘り出れた何百枚という古銭は、当時この地で生活を営んでいた豪族がいたことを無言のうちに教えてくれます。