公開日 2019年2月6日
更新日 2019年2月28日
- 地域
- 市浜地域
- 名称
- 田篠原と臼杵氏 その1(たしのばるとうすきし)
- 所在
- 備考
- 昭和64年1月調べ
- 説明
- 水ヶ城の麓から臼杵湾の方へ向かって握りこぶしのように突き出た台地。平坦部が広く、日当たり、水はけも良いところからほぼ全域にわたり住宅が建てられています。この台地は、その昔、田篠原と呼ばれ古代から中世にわたって「臼杵姓」を名乗った豪族が居館を構えていた土地であるとも言われています。
台地に人が住み始めた歴史は古く、台地の三方(東・南・北)に海水が寄せていた原始の時代、すなわち、今からおよそ一万年程前の縄文時代にまで遡ることができます。当時は、三方が海、一方が山に接していたため、海からは魚類、貝類、海藻類を、山からは猪、鹿、狸、兎等の小動物、加えてトチ、シイ、カシ、クリなどの木の実を貴重な資源として、狩猟採集の生活を営んでいたと思われます。その生活の一端をうかがわせるものとして、往時の生活道具であったカメや鉢などの土器片を台地のあちこちから表採する事ができます。逆に見るならば、これらの土器や石器が見つかるということは、人間が住んでいた証であるとも言えます。また、縄文時代の遺物(土器や石器など)に限らず各時代時代の遺物がここから採集されます。このことは、この土地が現在に至るまでの長い間、最適な生活空間の一つとして人々から利用されていたと考えることができます。
中世に入ると、この田篠原の大部分が豪族の居館として使われていたようです。台地の南側部分には、「桜馬場」「地蔵本」「船頭給」「古蔵」という小字名が、中央から北側にかけては「鍛冶屋原」「堂メキ」などといった小字名が現在も残っていますが、これらの小字名はただ何気なくつけられたのではなく、かつて、その土地がそのような施設として利用されていたか、或いは施設の建物などが、存在していたことを物語っているのではないでしょうか。そうだとすれば、「桜馬場」「船頭給(休とも書かれ、船頭が休む所、すなわち船着場を表すと思われる)」「古蔵」「鍛冶屋原」などという地名は、中世における豪族の館内部に存在していた施設などの位置を直接的に私たちに教えてくれる貴重な資料となります。
昭和五十七年(一九八二)一月、鍛冶屋原に接する堂メキの緩斜面を発掘調査したところ多量の土器片に混じってフイゴの羽口や鉄さい(鉄くず)が発見されました。この結果、鍛冶屋原には、字名の示すとおり鍛冶遺構が間違いなく遺存していると考えられるようになりました。