公開日 2019年2月6日
更新日 2019年2月28日
- 地域
- 市浜地域
- 名称
- 本田館跡(ほんだやかたあと)
- 所在
- 臼杵市市浜
- 備考
- 昭和63年3月調べ
- 説明
- 臼杵川に架けられた新万里橋を渡り、熊崎バイパスを50mばかり北方へ進むと右手(東側)にこぎれいな住宅が立ち並ぶ山の手区の台地が身見えてきます。この台地が「本田館跡」です。
東西百m、南北百二十mほどの台地の上は区画整理され、住宅が建てられているため、往時の館跡としての景観は失われています。東・西・南の三方に切り立つ岩肌によって、わずかに、その昔この台地上に存在していたであろう館の姿を思い描くことができます。
台地の造成工事が行われる前まで、他の台地とつながる北側部分には、東・西の谷に向かって、最大幅で二十三m、高さ約三m、長さ七十五mほどで両端部分が、南側に小さく折れ曲がり、「コ」の字形を呈する大きな土塁が残っていました。また、館の存在を裏付けるかのように造成工事中に中世瓦や陶磁器の破片などが出土したといわれています。館跡と呼ばれている遺跡はいくつかありますが、「本田館跡」という遺跡はあまり知られていませんでした。
江戸時代末期に国学者であった加嶋英国によって館跡の調査が行われ、その復元的な絵図が作られましたが、そのこともあまり知られていませんでした。この絵図は、駿州(現静岡県)田中藩士青木純之助という人物の願いによって英国が弘化四年(一八四七)から翌嘉永元年の間に描いたものです。当時、江戸の湯島聖堂詰めの儒者であった青木純之助が主家本多氏の豊後における旧領の由緒などについて調査していましたが、ある時英国の事を知り、臼杵まで彼を訪ねてきて、いろいろ旧領の由緒について教えをこい、その後、絵図作成の依頼をしたとのことです。本多氏というのは、ご存知のとおり徳川家康の家臣団の中で有力な一族です。
本多家系図によると、元は藤原姓であったが、鎌倉期に十二代助秀が豊後国の本田に移り住み、その土地の名にちなみ、本多と称するようになったと記されています。移り住んだ豊後の本田という名の場所こそ、現在の山の手区であり、本田館のあった所だったのです。
地名の変更は往々にして、その土地が持っていた歴史そのものを隠してしまうことがあります。この場合が好例といえます。どんな土地にも、その土地の特色にちなんで付けられた名、或いは人々の生活とのかかわりから付けられた名があり、深い歴史が刻まれているものです。近年いろいろな事情によって旧名が失われていきますが、その土地、あるいは地域への愛着と歴史へのかかわりを保ちつづけていくためにも旧地名というものを大切にしていきたいものです。