公開日 2019年2月6日
更新日 2019年2月28日
- 地域
- 臼杵・南部地域
- 名称
- 塩田の岩塀(しおたのいわべい)
- 所在
- 臼杵市塩田
- 備考
- 平成6年2月調べ
- 説明
- 四面を海に囲まれ、わずかな平地と険しい山脈によって国土を成す日本。小さな国にしては、いやだからこそ日本人は遥か古代の昔から、大規模な土木工事を行い、集落を造り、田畑を起こしてきたのです。
日本人が農耕を始め、一ヶ所に定住して社会的な組織による大集落を形成しはじめた弥生時代に、こうした大がかりな土木工事は始まります。敵の来襲に備え、生活用水や集落内の排水機能も兼ね合わせた、佐賀県吉野ヶ里遺跡や大阪府池上遺跡といった弥生中期の環濠集落はその典型的な例でしょう。
古墳時代に入ると、大阪府の大山古墳(伝・仁徳天皇陵)をはじめとする、大型の古墳造築が大ブームとなり、この他にも、中国大陸や朝鮮半島から技術者が来日したこととあわせて、日本人の土木技術は格段に進歩するのです。
そして八世紀に造営された計画都市である、総面積二十二km2を超える平城京(奈良県)は、人力のみによる土木技術の集大成といった存在といえるでしょう。
それから八~九百年を経て、日本は再び一大土木事業ブームの時期を迎えます。戦国大名の成長と豊臣秀吉から徳川家康に至る日本平定によって各地で行われた近世城郭の建設と、それに伴う都市機能を持った城下町を始めとする“町場”の形成がそれです。港や街道といった交通網を整え、街中を住む人の身分や職業によって区分し、それぞれが機能的に働き、支配者側から見て統制のとりやすいように造られたのが近世の町なのです。そのため、町の造営にはかなり綿密な都市計画が必要となります。自然地形が計画よりも狭い範囲である場合、当然ながら埋め立てや削平といった大土木工事が行われることになります。
臼杵城下町もまたその例外ではなく、大友義鎮が十五世紀半ばに城下町を造るまで、現在の市街地で陸地だったのは、原山と陣山、そして海添の一部くらいなもの。あとは大友氏から江戸時代の稲葉氏にかけての期間にそのほとんどが造成されているのです。
特に十七世紀前半代、藩主が稲葉典通から信通の時代は、重なる戦乱で荒れはてた大友時代の臼杵の町を復興させるため、努力した時代です。前任地の美濃から臼杵へ帰参する家臣の数も多く、武家屋敷の確保も大変だったようです。
塩田の原山添いの武家屋敷跡には、この忙しい町造りの様子を伺わせる「岩塀」が残されています。これは灰石の岩山を塀のように厚さ五十cm、高さ一m位に彫りのこし、隣家との境にしたものです。原山の裾は灰石の岩が露出しており、こんな所まで切り開かねばならなかった当時の苦労が忍ばれます。おそらく、臼杵城の改修にも大量の石が必要だったので、こうした岩山から石を取ったあと、宅地として転用する計画が当初からあったのではないでしょうか。そのため、屋敷地の区画に合わせて塀とする部分を残しておいたということが想像されます。
全てを人力に頼る時代、それだけに人々は岩の堅さ、土の重さ、水の恐ろしさを身を以って知ることになったのでしょう。そしてその中で自然に対する畏怖の念も育まれてきたのではないでしょうか。
機械力に頼る時代でも、この真理だけは変わらないはずですが。