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大橋寺の大釜

公開日 2019年2月6日

更新日 2019年2月28日

 
地域
臼杵・南部地域
名称
大橋寺の大釜(だいきょうじのおおがま)
所在
臼杵市平清水
備考
平成2年6月調べ
説明
それぞれの土地には、その歴史の中で、現在の姿からは想像もつかないほど、悲しい事実がいくつか秘められていることがあります。
今では平和で落ち着いたたたずまいを見せる臼杵でも、その長い歴史を振り返ってみると、幾度も多くの人が傷つき、倒れる戦場となっていたという記録に行き当たります。また、市内のあちこちに、そうした悲しい出来事を物語る遺物が、今も残されています。 
平清水の大橋寺にある大釜も、こうしたものの一つといえるでしょう。
この大釜は、口径が七十三センチ、高さ五十センチ、幅が九十センチという大きさの鉄製羽釜です。現在は庫裏(寺の台所がある建物)の前に置かれ、雨どいの水受けになっています。
方丈さん(住職)のお話によりますと、この大釜は、今から百十三年前の明治十年(一八七七)に起きた西南の役のとき、臼杵に侵入してきた西郷軍の鎮圧にあたった警視隊隊員への炊き出しに使ったとのことです。
この年の二月、明治新政府に不満を抱く鹿児島の不平士族が、西郷隆盛を総大将として大規模な反乱を起こしました。これが、「西南の役」です。五月になると、その戦禍は大分県まで拡大してきました。また、臼杵は良港に恵まれていたために、ここから船で大阪へ攻め込もうとする西郷軍の一隊が、臼杵へも侵入してきました。
これらの鎮圧にあたったのは、旧臼杵藩士八百名で結成された「臼杵隊」と、東京の警視庁から派遣された、警察の部隊である警視隊です。
山田小警部に率いられた豊後口二番隊百二十名は、五月三十日に本営(本部)と定められた大橋寺に入ります。そして翌々日の六月一日には、侵入してきた西郷軍と臼杵市内のあちこちで戦闘となり、双方合わせて二百三十名の死傷者を出す悲惨な結果となりました。
当時の様子を目撃した人の聞き書きによりますと、西郷軍兵士は、臼杵隊士に対しては比較的寛大であったものの、政府の役人である警視隊員には容赦せず、その死体はどれも首が無かったり、腹を割かれていたりしたということです。また、警視隊員の戦死体には、西郷軍が敬意を示さなかったとのことで、西郷軍が臼杵を撤退する六月十日までの間、そのまま路上に打ち捨てられていたり、川に投げ込まれていたとも言われています。
警視隊員の多くは、その出身が東北や関東地方だったとのことです。遠い他国で、同じ釜の飯を食べながら、ほっと一息ついたときに語られたのは明日の我が身のことだったのでしょうか、それとも故郷の家族のことだったのでしょうか。
  • 臼杵市役所臼杵庁舎TEL:0972-63-1111(代表)
  • 臼杵市役所野津庁舎TEL:0974-32-2220(代表)

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