公開日 2019年2月6日
更新日 2019年2月28日
- 地域
- 臼杵・南部地域
- 名称
- 青原寺の腹切松(せいげんじのはらきりまつ)
- 所在
- 臼杵市東海添
- 備考
- 平成2年3月調べ
- 説明
- 臼杵には、かつて名木として名高い松が三本ありました。多福寺の雪窓松、安養寺の戸部松、そして青原寺の腹切松の三名松です。
松の枝振りだけではなく、臼杵の歴史の一断面を物語る事由がそれぞれあり、そうした面からも広く知られていました。中でも青原寺の腹切松は、その名が示す強烈な印象によって、良く知られていました。また、この松は別名「殉死松」とも呼ばれ、海添の旧青原寺境内にありました。現在の青原寺の墓所の西側にある細い山道を山上へ向かって三百五十メートルほど登ってゆくと、ブロック塀に囲まれた一区画が東側に見えてきます。この中に腹切松はありました。残念ながら、今はもうこの松の姿を見ることはできません。昭和十年八月二十八日に臼杵を襲った暴風雨によって倒されてしまったということです。現在は、その後に植えられた何代目かの松が、腹切松のあった位置を偲ばせてくれます
また、このブロック塀で囲まれた区画の中心には、笠付の高さおよそ百六十五センチの石碑が二基並ぶようにして建てられています。その西側に位置する石碑には、江戸時代の初期、主君の後を追い切腹して果てた稲葉氏の家臣、後藤市郎右衛門利連の殉死に至るまでの経緯が刻まれています。後藤利連は、天正十七年(一五八九)濃州上有知(のうしゅうこうずち)村(現、岐阜県武儀(むぎ)郡美濃町)で生まれ、父利員とともに稲葉氏に仕え、家督相続後は二代典通、三代一通に仕えました。利連の家禄は、もと二百五十石でしたが、寛永十四年(一六三七)に起きた島原の乱における武功によって元石高の五割増し(125石)の加増を受け、禄高三百七十五石となっています。こうしたことから利連は、一通への恩義を深く感じ、何かあるときには身を捨てて主君のために尽くそうと日頃から考えていました。
寛永十八年、参勤のため、臼杵藩主稲葉一通は三月二十一日病をおして、江戸へ向けて出発しました。この無理がたたってか一通の病は悪化し、ついに同年八月十六日、享年五十五歳を以って麻布の藩邸で亡くなりました。後藤利連はこの訃報に接するやただちに遺言を認め、何事も無かったような様子で、家僕を一人連れ、ひょうぜんと自宅を出、海添の青原寺に向い松の木下で切腹し、主君に殉じました。時に享年五十三歳でした。遺骸は青原寺境内に葬り、墓印に松を植えたといわれています。この松が、後世に腹切松と呼ばれるようになった所以です。この地に今は往時の松は無く、また、訪れる人も殆ど無く、ただ梢を吹き抜ける風の音と小鳥のさえずりだけの静寂さが歴史を感じさせてくれるようです。