公開日 2019年2月6日
更新日 2019年2月28日
- 地域
- 臼杵・南部地域
- 名称
- 八熊様(はちくまさま)
- 所在
- 臼杵市東海添(東光寺)
- 備考
- 昭和62年6月調べ
- 説明
- 原山と薬師山との谷間を北流する海添川両岸沿いには、旧武家屋敷が軒を並べるように建てられています。このような狭い土地に密集させた形で屋敷割りが行われたのは臼杵藩時代における身分制度の結果によるものです。同じ藩士ではあっても禄高の違いによって居住場所が限定されています。海添はこうした制度の中における中・下級藩士の屋敷地でした。この藩士の屋敷が連なる薬師山の一角に瑠璃山東光寺があります。
この寺の境内には、昔から「八熊様」と呼ばれ、深く信仰されている小堂があります。この小堂の中には、八熊権太郎芳親とその妻花子の二霊が祀られています。この二霊がどうして東光寺の境内に祀られるようになったのか、その訳は次のような出来事によるものでした。
今を去ること九百年程前の昔、白河天皇の御世、永保・応徳年のころ、阿波国(現在の徳島県)の某領主に仕えていたが、何か感ずるところがあり、仕えを辞して浪人となり、浪々している間に路銀がなくなってしまい夫婦で窮迫した日々を過ごしていました。
そうしたある日、芳親は自分のように大望を抱くものが、このまま生活に窮して野垂れ死にするより、辻斬り、追いはぎをして生活の苦しさをしのぎ、後日、八熊家の名を挙げれば、この罪も許されると考え、夫婦して追いはぎ強盗を働くことにしました。
そしてある時、獲物を求めて摂州(現在の大阪府)の京都橋あたりをうろついていたところ、安東左源太なる者が来たので、斬りかかったが、逆に夫婦とも斬り伏せられてしまいました。芳親は、安東某になんとかとどめを刺してくれと頼んだが、聞き入れられず、このため安東某の子孫に祟ると言い残して息絶えました。
この事があってから五百四十余年の寛永六年(一六二九)安東某氏の支流でその家系を伝えていた内畑村の平助というものが急に人事不省に陥った。いろいろと手を尽くしましたが、一向に回復する兆しがありませんでした。法印が平助の枕辺で祈願すること十七日に及び、これによって病苦は軽くなり、平助自ら、今私に乗り移っているのは八熊権太郎芳親と妻花子の二霊であるといい、過去のいきさつを詳しく話し出しました。法印はこの話を聞き終えるや二霊を安んじるため、法華経を購読しはじめました。するとたちまち霊の祟りが消え、病人は回復しました。
ここに法印は、二霊を安んじ、その追善供養のために東光寺境内に祠と二つの墓碑を建て二霊を祀り、その冥福を祈るために二人が亡くなった十六日を弔祭日として毎月お祀りするようになりました。
この二霊は、今日でも霊験あらたかな神として地域の人々に崇められています。