公開日 2019年2月6日
更新日 2019年2月28日
- 地域
- 臼杵・南部地域
- 名称
- 堀川(ほりかわ)
- 所在
- 臼杵市大字掛町~唐人町
- 備考
- 昭和60年6月調べ
- 説明
- 「堀川」という言葉を聞くと多くの人々がああ、あの川のことかと懐かしく思い起こすのではないでしょうか。昭和三十九年(一九六四)にすべて埋め立てられ、その堀跡に建物が建てられたり、道路がつくられたため、在りし日の川の姿をうかがうことはできませんが、「堀川」という地名と、かつては堀川の北岸に接していた八坂神社の大鳥居といちょうや、けやき並木から位置を推定することはできます。臼杵藩時代の城下絵図に記された堀川を現在の位置に置き換えてみるとおおむね臼杵トキハ(現大分銀行)から労働金庫、田中耳鼻科、えびすや倉庫(現野中工機(株)倉庫)、富士甚石油を結ぶ線上にあったことが判ります。絵図によると堀の巾十五間(約二十七メートル)、高さ三間(約五.四メートル)とあり、相当広いものであったことが判ります。長さについての記述はありませんが、臼杵川までおよそ二百五十メートルほどの距離があったと思われます。
この堀川が、城の防備的、あるいは城の内、外の区画、運河としての役割を持たせることを意図として開削工事が行われたのは臼杵藩主第二代稲葉典通の治世、慶長十三年(一六〇八)のことです。この工事によって運河の機能も持った堀川には、川に接して立ち並ぶ商家の倉庫へ、荷物運搬用の船が幾そうとなく出入りしていたと考えられます。また殿様の参勤交代の出発には、大手門を出て堀川から通い舟で沖に待っている御座船まで下っていったことが記録に見られます。明治時代以後、人々の交通路として重要な位置を占め、多くの舟の出入りで賑わいを見せていた堀川も時代の流れには抗し得ず消えてしまいました。
生活史の一コマとも言えた堀川が消え年月が経っていますが、偲ぶ気持ちは強まるばかりです。