公開日 2019年2月6日
更新日 2019年2月28日
- 地域
- 臼杵・南部地域
- 名称
- 御台場跡(おだいばあと)
- 所在
- 臼杵市
- 備考
- 昭和58年9月調べ
- 説明
- 青い海と入り込んだ海岸線、この恵まれた自然の海岸は、格好の漁場として、また天然の良港として臼杵の人々の生活の移り変わりとともに歩んできました。この時とともに移り変わってゆく海岸線の中に、往時とあまり変わらぬ姿をとどめ、臼杵の歴史の一ページを物語る珍しいものが、今なお残っています。それは御台場跡と呼ばれるものです。ちょっと聞きなれない言葉ですが、これは臼杵藩時代に海の防衛のために築かれた砲台跡のことです。
十九世紀の初め(江戸時代末期)日本のあちらこちらに通商を求めて外国船が頻繁に来航し、日本の鎖国政策をゆるがしていました。このような状況のもとで、幕府は諸藩に対して外国船打払令などを出し、沿岸に近づく外国船の撃退を命じ、鎖国策を守り続けようとしていました。臼杵藩も例外でなく幕府の鎖国策に従うため安政二年(一八五五)藩士川崎重房の海防論を採用し、自領の海岸線防備を行うため、楠屋鼻(泊ヶ内と津久見市の境)、竹ヶ鼻(板知屋地区の天神ヶ鼻)、琵琶ヶ鼻(下り松)、殿ヶ礁(以前の下ノ江少年自然の家の下)、的場山(津留地区)、将ぎ頭(東中グランドの北側)の五ヶ所に台場を築き、藩の石高に見合った武器(木製の砲筒や鉄砲)や兵士を配し、海岸線の警備を固めました。往時の慌しい世情の象徴とでも言うべきものであった御台場も今では将ぎ頭台場跡(東西2.6メートル、南北3.4メートル、高さ2.9メートル)一基を遺すのみです。人知れず湾に臨むその姿からは、深い歴史の一断面がうかがえます。