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加嶋英国と多葉古屋一

公開日 2019年2月7日

更新日 2019年2月28日

 
地域
その他
名称
加嶋英国と多葉古屋一(かしまひでくにとたばこや)
所在
臼杵市浜町
備考
平成3年3月調べ
説明
江戸時代の日本についてのイメージとして、科学の立ち遅れを上げる人も多いと思います。しかしながら、確かに当時の西欧諸国やアメリカといった先進国に比べ重工業・軍事技術は極度に遅れていたものの、天文学や数学の分野では世界的レベルの研究者を輩出しており、また本草学(農学・植物学)の研究は、当時の世界最高水準に達していたといわれています。
こうした研究者達や、彼らの研究を助けた人々は、何も身分、経済的に恵まれていた人々ばかりではなかったのです。本草学の大いなる発展が、農民や町人といった庶民階層の人々によって成された事実が示すように、広く大勢の人々が学問に参加することによって、日本の科学は鎖国政策の中にありながらも著しい進歩を見せていたのでした。
こうした背景に、庶民に学問の入口を開いていた寺小屋の存在があったことは見落とせません。寺子屋は、「読み・書き・算盤」といった初等教育を庶民の子弟に施した、個人経営の小規模な塾のことです。
十九世紀の初めごろには、現在の臼杵市内に少なくとも十軒の寺子屋があったことが記録されています。その中でも最も大きかったのが、文化三年(1806)、掛町に加嶋英国が開いた「多葉古屋」といわれています。
加嶋英国は天明二年(1782)掛町に生まれ、十四、五歳のころから家業の煙草商の傍ら俳諧(俳句)の道を歩んでいます。また、臼杵藩の命令で藩史を編纂し、その資料収集のために日本各地を歩き回ったため、臼杵のみならず、諸国の地理・歴史に造詣を深めた人でもありました。更には幕府の測量方、伊能忠敬に測量術を学び、弘化二年(1845)には藩の絵図係として臼杵藩領の海岸測量図を完成させるなど、多方面にわたってその才能を発揮させています。
「多葉古屋」は現在の住吉橋バス停付近にあり、二階建て建物の一階と二階とにそれぞれ十五畳ずつの教室を設けてありました。
この寺子屋は文化三年から慶応三年(1867)に至るまで、英国とその息子英彦の二代にわたって、六十一年間経営されていました。この間、ここに学んだ子供の数は約三千五百人前後と推定されます。年間、平均して五十人前後が通っていたと思われますが、英彦の残した資料には、多い時で九十人もの子供が通った年があると記されています。
  • 臼杵市役所臼杵庁舎TEL:0972-63-1111(代表)
  • 臼杵市役所野津庁舎TEL:0974-32-2220(代表)

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